神経症者の要求の特徴3

前回に続いて今回もカレン・ホルナイの言う神経症的要求の第三の特徴である「それにふさわしい努力をしないで、それを求める」について考えてみたい。

「水に入らずして向こう岸に達せし例なし」と言う格言がある。また「水をおおうて月影を求む」と言う格言もある。まさに神経症者の要求である。

ある女性高齢者である。母親の時に子供を放ったらかして自分の好き勝手なことをしていた。時には子供を虐待もした。燃えている薪を持って、「殺してやる」と子供を追いかけたこともある。息子が稼ぐようになってからは息子からお金を絞れるだけ絞って贅沢な生活をしていた。その母親は自分の子供を可愛いと思ったことは一度もない。

そして年をとってからは、今度は自分が高齢者という弱者の立場を利用してすごい要求を子供達にする。自分の面倒を見るのは子供の当然の義務と、子供達の世話になる。そして「私の知っている人で老人ホームに入った人は居ない。そんな冷たいことはさせない」と子供達に言う。
 母親が母親の気持ちで子供と接するから、後に子供は子供の気持ちで年老いた母親の世話をしようとする。しかし神経症者は自分は母親としての愛情もなく、母親としての役目も果たさないで、年を取ってから、今度は子供に子供であることを要求する。

もし母親が母親として行動していれば、要求などしなくても子供は子供としての行動をする。子供は頼まれなくても喜んで母親の世話をする。義務としてよりも喜びとしては母親の世話をする。どう子育てをしたかが、年をとってからの親孝行に表れる。

神経症者は自分のしてきたことを棚に上げて、要求だけはする。そしてその要求が通らないと相手を酷い人だと恨む。或いは社会は不公平だと社会を恨む。この神経症的母親にしても、子供を始め周囲の人を恨んだ。彼女の周囲で子供達に大切にされている母親というのは、その母親が若い頃に、母親としての愛情があったから、年をとって子供達から大切にされているのである。ところが自分がしてきたことを棚に上げて、「あの人はあんなに子供達から大切にされている」と、特定のある部分だけを取り出す。

 私は悩んでいる人が来るとよく「あなたは、十年前には何をしていましたか?二十年前には何をしていましたか?」と聞く。それは悩んでいる人は今の不満の種を十年前、二十年前に蒔いているからである。
 神経症者で病気になって悔しがっている人が居る。体力がなくなったと、周囲の健康な人を妬む。「あの人はあんなに健康なのに」と、健康な人を見ては自分の不健康を恨む。しかし健康な人が十年前にしていたことと、自分が十年前にしていたことの比較はしない。会社を終わって深夜までお酒を飲んでいる人と、会社を終わってスポーツクラブに行く人とでは十年後には健康に差がでて当たり前である。

神経症者で悩んでいる人は「なぜ自分はこうなってしまったか」と言う原因を考えようとしない。だから事態は改善されないで、いよいよ悩むことになる。いよいよ人を恨むことになる。

悩んでいる人は現在の自分の悩みが今までの生き方の結果だと言うことを理解しない。今まで長年にわたっていい加減な生き方をしてきた「あか」が悩みという形を取って表れたのだと言うことを理解しない。だから常に他人を責めることになる。例えば私の所に悩んでいる人が手紙を書いてくる。その手紙の書き方、封筒の書き方、封筒の選び方、言葉の使い方、手紙の出し方のいい加減さは驚くべきものがある。自分が書いてそれを「相手に」出すのだと言う姿勢がない。「相手」を考えていない。これは何も私の所に手紙を出すときだけが酷いわけではないだろう。自分の身の回りの人との付き合い方が常に相手を無視した付き合いなのである。そうした小さな小さな些細な日常の生活のいい加減さが長い間に垢となって身に付いてきたのである。

何カ月もお風呂に入っていないで垢だらけのエリート・ビジネスマンと、いつも清潔にしている平凡なサラリーマンとあなたはどちらと握手するであろうか。悩んでいる人は口で綺麗なことを言い、表面立派なことをしているのだが、自分の日常の立ち居振る舞いが酷く自己中心的で、何よりもずるく利己的になっていることに気がつかない。

人がその悩んでいる人を避けるのは、その人の表面的にしていることが犯罪的だからではない。表面立派なことを言いながら、陰でずるく立ち回っているその態度、考え方が、イヤなのである。その生き方が何気ないふとした日常の仕草に表れるから、何だか知らないけど付き合いたくなくなるのである。口で言っていることが悪いことだからその人を避けているわけではない。口では立派なことを言いながら、その実見えないところでお金を儲けようとしているその生き方が何気ない口調に表れるからイヤなのである。その口調にずるさを感じて付き合おうとしないのである。

悩んでいる人は今自分の周りにいる人を責めるが、それはその人の長年の生き方の結果なのである。悩んでいる人は今自分の周りにいる人を恨むが、それはその人の長年の生き方の結果なのである。悩んでいる人は自分の周囲にいる人達を質が悪いと嘆くが、もし彼が人に見えないところでも誠実に生きて来たならば、今の人間関係は違っている。今自分の周囲にいる人達の質は違っている。長年にわたって自分がずるく立ち回って生きてきたから自分の周りにはずるい人ばかりが集まってしまったのである。「類は友を呼ぶ」とはまさにその通りである。誠実に生きている人は心の純粋な人を見分ける。動物的にかぎわける。

そして口先で立派なことを言いながら陰でずるく立ち回るような人からは誠実な人は遠ざかっていく。世間的な範囲の付き合いはするかも知れないが、親しい付き合いはしない。困ったときに助け合うような付き合いはしない。お互いに支えあいながら生きていくと言うような付き合いはしない。悩んでいる人は周囲の人が自分を助けないと言って怒って手紙を書いてくる。しかし自分も困った人を助けないで生きてきたから周囲にはそういう人が集まっているという反省はしない。

今人間関係で悩んでいる人が十年前に「もう、こんなずるい人達はゴメンだ」と言ってその人質から遠ざかろうとしていれば、今とは違った人間関係が出来上がっていたのである。しかし十年前にその人達は自分にとって何か都合いいところがあったのである。お世辞をいってくれるとか、共通の敵を陥れるためとか、一緒にいることが得になるとか、お互いに自分の醜い面を見ないようにしているとか、一緒にある人の悪口を言っていられるとか、一緒に「あんなものくだらない」とあることを蔑んでいられるとか、丁度非行少年が一緒にいるように何か自分を守るために都合が良かったのである。その「つけ」が今来ているのである。今の悩みの原因はこの十年間の自分の生き方の積み重ねの結果だということを理解しないと、本当の解決はない。

別の仕事の失敗というような例で考えてみよう。確かに今の仕事の失敗はある人に騙されたからかも知れない。だから「あいつに騙された」と「あいつ」を恨むのは分かる。しかしそれは前に同じように失敗をしたときに反省をしなかったことが元の原因かも知れない。
 
前の失敗が人の煽てに乗って投資をしてしまったことだとする。もしそうなら「お世辞の弱い自分」を深刻に反省しなけければならなかったのである。その反省が足りなくてまた同じように人のお世辞が気持ちよくてその人のいうなりにお金を出して失敗したのである。

或いは前の失敗は人の口先のきれい事に騙されたのかも知れない。だとすれば「人の言う口先のきれい事は絶対に信用してはいけない」と骨の髄まで分かっていなかったのである。人の口先のきれい事に騙されるのは「いい人」と思ってもらいたいからである。そうであるなら人によく思ってもらおうとする自己不在を反省しなければならないのである。

先の母親でも、もし「考えてみれば、自分は一度も子供のことを可愛いなーと、思ったことはなかった、一度も子供の顔を見ていればそれで幸せと思ったことはなかった、だから子供達が真剣に自分のことを大切にしないのは当たり前だなー」と原因を突き詰めていけば、子供達の気持ちも変わるのである。「お母さんが変わった、昔のことはもういい、たった一人の母親だから大切にしよう」となるだろう。

しかし神経症的になると「母親を大切にするべきだ」という、自分に都合いい一般的な規範を振りかざして周囲の人々を責める。子供とはかくあるべきという理想の子供像を掲げて現実の子供を批判する。だいたい正義の御旗を掲げる人には神経症者が多い。その規範の適用される範囲のことは考えない。

そしてこの正義の味方の御旗に弱いのも神経症者である。自分がするべきことをしていないから、この様な表面的な正義と愛の言葉を言う人に弱い。いつも自分がずるく立ち回っているから心の底にやましさがある。そこでこの神経症者の「正義と愛の言葉」に振り回される。「ノー」と言えない。自分の出来ることを誠実にしている人は、心の底にやましさがないから神経症者の「正義と愛の言葉」にはっきりと「ノー」と言える。神経症者は神経症者に騙されるが、心理的に健康な人は神経症者に騙されない。

ではなぜ彼等は「それにふさわしい努力をしないのか」

一つには自分は特別であることを要求しているから。自分だけは死なないでいつまでも何時までも生きていたい。暴飲暴食しても、病気にならないで、いつも健康でいたい。健康になるために、ふさわしい努力をしなくても健康でいることを要求する。食べたいだけ食べて、運動もしない。そして太っている自分と痩せている人を見て不公平だと思う。運動しなくても自分だけはいつまでも若くいたい。

他人には自然の法則を当てはめるが自分にはこの様な当たり前の自然の法則を当てはめない。また高齢になっても若者と体力をきそう。

神経症者は原因と結果の関係を受け入れない。例えば人と自分を比較するときにその人がそれを達成するまでに払われた努力には注目しない。人がニコニコしていると、その人には悩みがないと思う。ニコニコしていても悩んでいる人は多い。それなりの努力をしてニコニコしているのである。ニコニコしているに、ふさわしい努力をしているから、ニコニコしていられるのである。

言ってみれば神経症者は常に人生のバイパスを走っている。困難のないバイパスを走っている。楽である。もともとの道には様々な障害がある。そしてその障害、困難で人は鍛えられるのである。障害、困難で人は強くなる。知恵のある人になる。

神経症者は心の底では自分が、バイパスを走っているのは望ましくないと知っている。しかしそれを認めたくない。自分は愚かだと知っている。しかしそれを認めたくない。今さら障害のある道を走ってきた人に勝てないと知っている。そこで妙に立派ぶってみたり、少年なら非行に走ってみたりとしている。あるいは逆に「あいつらは馬鹿だよ」と言っている。そして自分の神経症を悪化させてしまう。

「あいつらは馬鹿だよ」と言いながら、実は怖いのである。「あいつ等は俺の知らないこと知っているよー、怖いよー」と心の中で叫んでいるのである。

第二は、「それにふさわしい努力」をすることは現実の自分に直面することだからである。先生をけなしていれば、勉強しなくてもいい。勉強なんて下らないといっていれば、勉強する努力をしなくてもいい。

「それにふさわしい努力」とは、その様にして現実から逃げないと言うことである。だから「それにふさわしい努力」とはまず自分に直面する努力である。信じられる人が居れば「それにふさわしい努力」をする。信じられる人が居れば現実に直面できるからである。

逆に信じられる人が居なければ「それにふさわしい努力」はきつい。日常生活が苦しい。彼等はそれを紛らわすために名誉がほしいのである。彼等は毎日毎日無理をしている。この毎日の日常生活に耐えられないのが神経症である。

例えば人は彼等に「友達が欲しければ、自分から友達になる努力をすればいいじゃーないか」と言うようなことを言う。心理的に健康な人は「自分が歩み寄らなければ人がきてくれない」と言われても、それほどきつくない。しかし神経症者には「自分が歩み寄る」ことがきつい。拒絶されるかも知れないからである。現実の自分に直面していくことよりも、一人でいることを選ぶ。

第三に神経症者は具体的な目標がないから「それにふさわしい努力」をしないのである。家が欲しいという人は努力する。もっと働けばいい。家を買うという目的があるから。このくらい働けば、このくらいのお金がもらえると知っている。現実を知っている。自己実現する人は目的があるから働く。

具体的な目標がない神経症者は非現実的な夢に逃げる。だから努力をしないで、愚痴を言い、現状に不満でイライラしているしかなくなる。

勝ちたいくせに努力しない人がいる。つまり「勝ち負けにこだわるくせにすぐに降りる」タイプである。このタイプの人が会社のお金を管理する立場になるとどうなるか。会社のお金を使い込むようなタイプの人になる。体裁にこだわりながらも体裁を整える努力はしない。「それに値する努力」の方は辛いからしない。汗を流す努力の方はしない。だけども体裁の悪いことはしたくない。人にいい顔をしたい。「それにふさわしい努力をしない」神経症者である。

人にいい顔をしながらも、いい顔をするだけの努力はしない。そうした努力をしないで体裁を整えるためには何か特別なこと考えなければならない。あるいは何か特別なことををしなければならない。会社の書類を少し書きかえるだけでお金が転がり込むとなれば、このタイプは誘惑に勝てない。

部下にいい顔をしたい。兄弟に大きな顔をしたい。親戚に尊敬してもらいたい。友人に自慢話をしたい。しかしそれをするための努力は辛いからイヤだとなれば、する事は決まってくる。他人のお金や公金の「使い込み」である。これほど楽にお金が転がり込むことはない。

使い込みをするような人は、たいてい自己不在で、努力はしたくないが、常に人にいい顔をしたいタイプである。こういう人達は言うことはきれいだが、常に自分を体裁良く取り繕うことしか考えていない。こういう人達は常に建て前を言うが、自分の利益しか考えていない。

あまりにも立派なことを声高に言う人で、卑怯でない人に私は会ったためしがない。論語の「子の日く、巧言令色、すくなし仁」とはまさに名言である。言葉のうまい人に徳はない。しかしそれに引っかかるのは神経症者である。

「かわいそうで、かわいそうでたまらないのよ」などと自分の愛情深さを声高に誇示する人は、たいてい冷たい利己主義者である。本当に心の温かい人は、そんなことを皆に言う前に実際に行動している。実際に行動しない「使い込みタイプ」の人がきれいなことを声高に言うのである。言葉上手の神経症者にひっかかるのもまた神経症者である。

きれい事をいう人が実は会社のお金を使い込むタイプである。会社のお金でなくても自分が管理をしているお金を使い込むタイプである。ホームレスになっても仕方のない人が、人に気前のいいところを見せようとすれば、使い込み等々しかない。銀行であろうと、証券会社であろうと、何であろうと使い込める立場に立てば、神経症的な人は他人のお金や公金を使い込む。

使い込みがばれないことはまずない。こうして神経症的要求をしている人達はどこかで人生に大きくつまずく。2