神経症者の要求の特徴2

前回までに続いて今回はカレン・ホルナイの言う神経症的要求の第二の特徴である自己中心性について考えてみたい。
 先ず神経症にまではなっては居ないが自己中心的な人の例を考えてみよう。講演会の司会をした人に「講演会うまくいった?」と聞いたとする。自己中心的か自己中心的でないかは、その時に「失敗しちゃった」と答える人と、「講演会はうまく行ったけども、私の司会は失敗しちゃった」と答える人の違いである。
 自己中心的な人が講演会の司会をすると、講演会そのものには関心がない。講演会に関心があるとは、例えば聴衆はどう反応しているかを見ていることである。講師をしっかりと見ているということである。講師が不愉快そうな顔をしたか、どうか。無理をして笑っているのではないか等を見ているかどうかである。
 自己中心的な人の関心は、自分がパーフェクトに振る舞えたか、振る舞えなかったにしかない。自分がパーフェクトに振る舞えないと皆から責められると思い込んでいる。講師が機嫌を害すると自分の司会がまずいからと解釈する。そして完全に振る舞えなかった自分を責める。しかし講師をしっかりと見ていない。講師のふと見せる表情、ふとした仕草を見ていない。
 講演に行くと時々「私はこの講演会のためにこうして苦労して取り仕切っているのよ」ということを話す人がいる。「先生、私って凄いでしょ」と自分を売り込んでいるのである。相手が「忙しいのにきてくれた」と、相手の事情は考えない。
 講演に呼んで「先生のような方が来てくれて、光栄だ」と騒ぐ人もいる。しかし帰りの新幹線は「頼んでいた」禁煙の席をとっていない。つまり相手を呼んだ自分に酔っているのであって、相手に対する思いやりはない。自己中心的な人はつねにこうして一人よがりである。

 この程度はいいが、神経症的自己中心性となるとどうなるか。それは悩みに表れる。悩んでいる人はたいてい「自分一人だけが」悩んでいると思っている。それが悩んでいる人の特徴である。つまり自己中心性である。そしてさらに自分の陥っている悩みが最大の悩みと思っている。
 失恋で悩んでいる人は、失恋が人生の悩みの最大のことだと思っている。経済的なことで悩んでいる人に「何で恋人がいるのに貴方は悩んでいるのか?」と不思議に思う程である。
 悩んでいる人は自分のことしか考えていないから、相手がニコニコしていると悩んでいないと思う。神経症者は「かたち」でしかものを考えない。表面的にしか物事を見ていない。
 自分が相談しようとしている相手はもしかすると現在の自分よりももっと大変な問題を抱えているかもしれない等ということは想像すらしない。

自己中心的な人は常に人間関係がこじれる。自己中心的な人は自分が「独善的に」「誠意」を尽くせば相手も自分に誠意を尽くすのが当たり前と感じている。そして自分の期待した反応がないと「自分がこんなにしているのに、」と相手に不満を持つ。「私がこんなにしているのに」と言う不満を持つが、周囲の人に言わせれば「お前にしてくれとは頼んでいない」ということである。
 自己中心的な人は相手の感情を無視している。例えば、自分が相手に会いたい時に、相手は自分に会いたくないということは思いも寄らない。あるいは相手に自分と会う時間的ゆとりがあるかないか等は思いも寄らない。つまり相手に個人としての人格を認めていない。
 そして思うように行かないとすぐに「誰も私を分かってくれない」と不平を言う。そもそも相手はその人がそんなに「独善的に」「誠意」をを尽くすことを求めていない。しかし自己中心的な人は、自分の誠意のつくし方が間違っているということが理解できない。

 悩んだ人がよく手帳や日記を送ってくる。或いは研究室に来て手帳をおいていく。そしてそれに対する相手からの反応がないと「私がここまで自分を打ち明けているのに」と猛烈に不満になる。「命の次に大切な手帳をあなたに見せたのに、あなたは、、」とものすごく怒る。まんいちその手帳をなくそうものならおそらく一生恨まれるであろう。
 彼が理解できないのは「私にとって大切なもの」が「他人にとって必ずしも大切なもの」ではないと言うことである。他人の手帳を見たいなどと思う人はまず居ない。そこがどうしても理解できない。
 よくそこまで自分の過去の傷を人に打ち明けなくてもいいのにと思うほど打ち明ける人がいる。誰にも不必要に自分の恥部を打ち明けて話をする人はたいてき自己中心的である。打ち明けることで相手からの同情とか保護を求めているのである。
 おそらく手帳をおいて行くのも、不必要に自分の恥部を打ち明けるのも、相手に「母なるもの」を求めているのであろう。無意識のうちに相手と疑似親子関係を築こうとしているのである。神経症者が相談に来たからといって悩みについての具体的な解決を求めているのではない。

自己中心的な人は自分の心の葛藤に完全に囚われて消耗している。だから相手には相手の立場や、必要や、悩みや、忙しさがあると言うことまで考えるゆとりが無い。従って相手に迷惑をかけながら、迷惑をかけていると言うことには気が付かない。相手だって大変かも知れない。相手だって相談したいように悩んでいるかも知れない。これがどうしても理解できない。
 自己中心的な人にとって「現実」とは「自分が今したいこと」だけである。他人もまた「今したいこと」「今しなければならないこと」があるということを認められない。他人の「したいこと」「しなければならないこと」は彼にとってこの世の中には存在しないのである。彼にとってはそれは現実ではない。

 そして相手との関係で自分の被った被害を強調する。例えば自分が相手と会うために遠くからでてきたとする。すると自分はどこそこから出てきたと被害を強調する。勝手に出てきておいて「自分はこんなにまでした」と強調する。実はたいしたことをしていないのが通常である。しかし被害を強調する。
 彼等は消耗と心の悲惨さ訴えているのである。問題は彼等が具体的に被った被害ではない。だから第三者から見ると「あれしきのことで、何であそこまで言うのだ?」と不思議になる。
 そして彼等は相手からの愛の言葉を求めて居る。怒りの表現と愛を求めることを同時に行おうとするから、自らが被った被害の強調となる。だから悩んでいる人は常に「私はこんなに酷い眼にあった」と被った被害を訴えるのである。
 
 そうして相談に来た悩んでいる人に「君は姿勢が悪いから、まず姿勢を正すことだ」などと言うような具体的なアドバイスをすると怒る。ではなぜ悩んでいる人は具体的なアドバイスに怒るのか。それは姿勢を正して愛されるようになると想像できないからである。彼等は愛を求めているので、相談しているわけではない。