体験の解釈の仕方

今回から「心理的健康と解釈」について書いてみたい。ある年の新入社員の話である。その人は広告代理店に入社した。彼は入社第一日目から広告を取りに出されたという。もちろん広告は取れなかった。学生時代に部活動をして何かのパンフレットを作り、そこに大学の近所のお店の広告を取りに回ったと言う学生時代を過ごした人もいるだろうが、多くの人にとっては広告を取るという仕事は学生時代に経験していない。だからうまくいかなくて当たり前なのである。
 
彼は自分が広告を取れなかったということをどう解釈し始めたか。次のように解釈した。自分は見知らぬ人と話すのが苦手である、自分は無口な方だ、だから自分はこの会社には向いていないのではないか、会社が向いていない自分の人生はおしまいだ、そう解釈して彼は出社二日目にして山手線に飛び込んでしまった。
 
この自殺の原因を広告が取れなかったと言うところに求めるのはどうだろうか。というのはその年のその広告代理店の新入社員は九人であった。そして全員初日には広告が取れなかった。しかし皆はそうした行為に出なかった。つまり自殺の原因は失敗と言う事実よりも失敗に対する解釈である。

同じ失敗をしてもその解釈は楽観的な人と悲観的な人とでは違う。楽観的態度を測定する最もよい方法のひとつに、心理学で「解釈のしかた」 (註、explanatory style)と呼ばれるものがある。クリストファー・ピーターソン博士とリーザ・M・ボッシオが「健康的な態度」 (註、Christpher Peterson, Ph.D.., and Lisa M. Bossio University of Michigan, Healthy Attitudes: Optimism, Hope, And Control.)と言う論文を「心と体の医学」(註、Mind /Body Medicine,/edited by Caniel Goleman, Ph.D., and joel Gurin. Consumer Union, 1993.) と言う本に書いているが、それをもとに健康的な態度について少し考えたい。楽観的か楽観的でないかは次の3つの基準によって判断される。

第一の基準は失敗の原因を自分の内的なことに求めるか、自分の外に求めるかである。この新入社員は広告が取れないと言う原因を自分のうちに求めた。つまり内的解釈(註、internal explanation)である。
 
広告を取れなかった人の中には自分が広告が取れなかったということを「こんな厳しい経済状況で企業が広告費を削られるのが当たり前だよ、とれるわけないよ」と解釈した人もいるだろう。その時の経済状況という外的なことに原因を求めた解釈である。つまり解釈の第一の基準は内的か外的かである。
 
失敗の原因を自分の内的なことに求める人は「将来同じ失敗を繰り返させるような根本的な欠陥が自分にあると考え」 (註、Christpher Peterson, Ph.D.., and Lisa M. Bossio University of Michigan, Healthy Attitudes: Optimism, Hope, And Control.)がちである。しかし実際にはそんなことはない。
 
部下に人気のないビジネスマンの中には、それを自分の性格と解釈する人がいる。そして人望がないのは自分の性格でどうしようもないと考える。だから自分は会社で人望を得て、出世など出来ない人間だと落ち込んでいく。そう考えるのが悲観的な人である。
 
しかしビジネスマンのなかには、人望がないのは自分の性格のせいではなく、たまたま自分の課には自分と肌のあわない人が集まったと、自分の外に原因を求める人もいるだろう。そのうちに自分と肌の合う部下が集まるときもあるだろうと考えるビジネスマンもいる。部下に人望がないときに、運や巡り合わせのような外的(註、external)な要因のせいだと思う人もいる

第二の基準は、よくないできごとを引き起こした原因が長期的に続くものと思っているか、あるいは一時的(註、unstable)なものと思っているかである。その新入社員は、この状況は変わらないと思った。つまり持続的(註、stable)なものと思った。変わると思えば絶望はしない。この苦しみはなくならないと思うから絶望するのである。
 
自分のうちに失敗の原因を求める人は、同じことをすればまた自分は失敗すると思ってしまう。根本的な欠陥が自分にあると考えれば、その様な解釈になってしまう。
 
平たく言えば無気力な人になってしまう。その新入社員は広告を取りに行けばまたとれないと解釈したのだろう。だから自分の仕事の能力に絶望したのである。そのうちに取れるようになるだろうとは考えなかった。
 
彼だって広告を取れるチャンスはあるに違いない。しかし悲観的な人はチャンスをチャンスと見ない。内的な解釈をする人は、どちらかというと持続的な解釈をしてしまう。その広告会社の他の新入社員の中の楽観的な人は、不運はいつまでも続かないと思ったであろう。

悲観的な人はチャンスが自分の家のドアをノックしているのに、気がつかない人である。チャンスが何度ノックしても気がつかない。チャンスは家の中に人が居ないのだと思って帰ってしまう。それなのに無気力な人は[チャンスが来なかった]と言う。

第三の基準は限定的か、包括的かである。「最後に、楽観的な人と悲観的な人では、自分の悩みごとをどの範囲まで広げて考えるかが違っている」(註、Christpher Peterson, Ph.D.., and Lisa M. Bossio University of Michigan, Healthy Attitudes: Optimism, Hope, And Control.)。その問題を別の方面にまで広げて(註、global)考える人がいる。新入社員は広告がとれなかったということを自分の仕事全体にまで広げて考えてしまった。会社にはいろいろの仕事があるはずだが彼は「私は何をやってもだめだ」と考えてしまった。さらに「自分の人生はダメだ」とまで広げて考えた。

他の社員は失敗を今回の広告取りという仕事だけに限定的(註、specific)に受け止め、その仕事以外のことにまで解釈を広げなかったし、仕事以外の生活にまで影響を出さなかった。

悲観的な人は、跳び箱が出来ないのに、石蹴りが出来ないとか、水泳が出来ないと思うに等しい。大学院で駄目だった人が政治家でもダメだと思う様なものである。

私は第四を加えたいと思っている。それは失敗に積極的な意味を見つける人とそうでない人である。失敗を悪いことと考えるか、良いことと考えるかである。  失敗に対する対処の仕方で失敗は成功への一里塚ともなれば、泥沼にもなる。失敗するとすぐに失望して、夢を諦める人がいる。事態は対処の仕方で変わると思って失敗を成功に導く人もいる。
 
学生でも中間試験で失敗して「あーよかった」と思う学生がいる。もっと大切な期末試験でこの失敗をしなくてすんだと思うからである。失恋しても、振られても「あーよかった」と思う人がいる。なぜ振られたかが分かるからもっと大切な結婚相手の時にこの失敗を繰り返さなくて済んだからである。
 
人生に失敗はつきものである。そうであるのに、心理的に病んでいる人は失敗を避けようとする。そして失敗しても失敗の積極的な面を見いだせない。しかし失敗に積極的な意味付けをする人は失敗しても、まず「良かったー」と考える。それはこの失敗があったからこそ、もっと大きな失敗が避けられたと思うからである。
 
失敗と言っても物凄い失敗だけではない。ここで失敗と言っているのは、事業に失敗するとか、結婚に失敗するとか、そういう非日常的な大きな失敗ばかりを言っているのではない。日常的な些細な失敗をも含めて言っているのである。
 
例えばある会社の、ある年の忘年会である。あまり奇麗ではない食堂で生牡蠣を食べてた。下痢をした人が沢山出た。その時に「あー、よかった」と言った人がいた。それはこういうところで生のものを食べてはいけないと体験で知ったからである。悲観的な人は下痢に苦しみながら「あんなところで忘年会をする」幹事を恨んだ。
 
失敗に積極的な意味付けをする人はこの下痢のおかげでもっと重大な仕事が控えている次の年の暮れに下痢をしないですんだ。しかし幹事を恨んでういた悲観的な人達はそこで学ばないから、同じ様に次の年に、別の場所で生のものを食べて同じ様にお腹を壊した。

不満な人は皆、人が驚くような成功をしようとする。前回触れたような高齢者の様に人を恨んで居る人も同じ様に、人が「わー凄い!」と驚嘆するような成功を求める。しかしそうした人は自分がしていること自体が好きではないから、粘りがない。途中で障害が出てくると簡単に挫折する。驚くほどすぐに「出来ない」と諦めるのである。
 大きなことを言う人ほど忍耐力がない。困難と戦う力がない。派手な名声を求める人ほど、困難に弱い。何か障害があると、こちらが「えー?」と思うほどすぐに諦める。つまり大きなことを言う人ほど目的実現のためのエネルギーがない。

前回触れた高齢者の手記の続きである。「北の海は足のネンザが完全になおらないでまけた。でも『足が不十分だったので負けた』とは決していわない。今、自分が与えられているのは自分の人生の不完全な足であり、いまは与えられている条件で戦えばそれでいいと考えているのだろう。愚痴をいっても人まねでもいけない。ほんものは、自分の与えられた条件で生きることだ。」
 
この人はこう言いつつやはり行き詰まった自分の人生の具体的な解決策を何も考えていない。なぜここまで自分は苦しむのかという根源的なことを考えていない。ことここに至ってもなんとか簡単に苦しみを逃れる方法を考えている。だからこの人は「自分は人に求めすぎるのだ」と言うことに最後まで気がつかない。
 
この人の生き方は、体が悪いときにレントゲンをとってきちんと原因を追及するのではなく、おまじないを唱えてくれる民間療法に頼ろうとしているのと似ている。自分は何もしないでおまじないを唱えてもらって治せるならそのほうが簡単でいいに決まっている。

「今に生きるという生き方も駄目、理想に生きるという生き方も駄目。自分の条件にかなった目的をもって生きることが健康な人間のいきかたである」。
 
まさにこの人に必要なのは「自分の条件にかなった目的をもって生きること」だったのである。それは「何でもかんでも人に求めない」ということである。他人に「こうして欲しい」「あーして欲しい」とばかり思っていないということである。
 
人に対する要求が大きすぎるから「自分の条件にかなった目的」が見つからないということがこの人には最後まで分からない。このことに気がつくことが出来ればこの人は「人間とは、ここまで苦しむものか」と思うほど苦しまなくても良かったのである。

困難を解決するのに安易な道を選ぼうとするのがノイローゼだというオーストリアの精神医学者ウルフの指摘がある。ウルフの言葉を使えばこの筆者は躊躇ノイローゼというものである。
 
この筆者は自分の人生に具体的な解決策を見つけるということに後込みしている。具体的に自分の目的を見つけようとはしていない。「私はこれをする」という目的がない。書いていることが、最後まで、人に対するお説教である。
 
ちょうど、企画を立てるが、実際には何も実現に動かない編集者に似ている。いい企画を立てたなら、それを誰に書いてもらうかを考えなければならない。そしてその人に接触しなければならない。そしてその人にこちらの意図を説明をし、その人に書いてもらわなければならない。その人がこちらの思うように書けないのは決まっている。そこから、実現への努力が始まる。
 
こういう人はこちらの思ったとおりに書いてくれる人が見つからないと「出来ません」という編集者である。「企画だけなら、誰でも出せる」といっては少し大袈裟だが、素晴しい企画なら多くの編集者がたてられる。肝心なことはその実現のためのエネルギーである。
 
これはもちろん会社の企画でも言える。ある会社がアメリカのどこかの会社とのネットワークをもつ企画を立てた。そこまではいい。「アメリカのある会社とのネットワークを」と言う案そのものはいい。しかしそれを実行する人が居ない。自分の会社とネットワークをもってくれる会社を探しにアメリカに飛び出していく人が居ない。
 
学者でも同じである。こういう研究ネットワークを作ってこうすればいいという教授は沢山居る。しかしそういう研究のネットワークを実際に作る教授は少ない。
 
苦しみ抜き、悩み抜き、恨み抜いて死んで行った、この筆者も同じなのである。「自分の条件にかなった目的をもって生きること」と書くことはいい。しかし自分がこれを実行しない。だからいつまで経っても悩みから抜け切れないのである。80才を過ぎてもますます悩みは深刻になるだけである。
 
そしてさらに筆者は決断不能、実行の引き伸ばしである。この筆者は躊躇ノイローゼである。ウルフによれば躊躇ノイローゼとは「もし自分がいつまでも待っていれば、その障害が消えてなくなるか、何か運命の神があらわれてそれを解決してくれると思うこと」である。
 
この筆者は自分の行き詰まった人生の具体的な解決法をまったく考えていない。離婚するのでもいい、自分の趣味を見つけるのでもいい、家を出て一人になるのでもいい、歳をとっているが勉強を始めるのでもいい、何かをすればよかった。彼はただ他人の不幸を見ているだけである。だから自分の苦しみを根本から癒せないのである。この人は他人の不運で自分は頑張ろうとしている。

苦しみを癒そうと思ったら、この人のように解釈するのはいいが、そのあとの実行である。実行をともなわない解釈は人の心を癒さない。何もしないでただ解釈だけで自分の苦しみを癒そうとしても無理である。これは生き方の基本である。有名な精神家医カレン・ホルナイが神経症的要求の特徴の一つとして「それにふさわしい努力をしないで、それを要求する」と言うのをあげている。このことについてはすでにだいぶ前にこの心理的健康のところで書いているから参照して欲しい。

この筆者の弟は事故で足をなくした。そして元気で暮らしている。だから自分も幸せになれるはずだという解釈である。しかし足を失った弟は絵をかいている。筆者のほうは体をつかっていない。
 
私はノイローゼの特徴は躊躇ノイローゼに限らず真剣に具体的な解決策を考えないということだと思っている。だから似非宗教集団がはやるのである。具体的な解決策を考えない人が集まる。
 
悩んでいる人は、具体的に自分の生活を変える努力をしない。具体的に自分の生活態度を変えること考えない。「朝、一時間早く起きる」という様な具体的に何かを変えるということをしない。具体的に生活方針を変えるということをしない。

この筆者は、「自分の条件にかなった目的をもって生きること」と書いているなら、これを始めればいい。しかしこの筆者は最後まで自分の目的をもてない。この人は「人生にあきるな!倦怠するな!」と書きつつ、自分は人生に死ぬほど倦怠している。最後まで解釈だけである。だから苦しんで、苦しんで、苦しみ抜いて、悩んで、悩んで、悩み抜いて、悶え死んだのである。
 
最後には「女をみんな殺したい!」とまで書いて死んでいった。そこまで人を恨んで死んでいった。表面を見れば家族に囲まれ、大きな家に住み、地域社会の人が尊敬するステイタスを得て、お金に不自由なく暮らして、それでいながら「女をみんな殺したい!」と書いて死ななければならなかった。
 
嘆いているだけで実際に物事にとりかからないのは心の葛藤のためである。道が遠いのを嘆いているだけでは何時になってもつかない。先ずはじめの一歩を踏み出すこと。