神経症者の要求の特徴1

アメリカの著名な精神科医カレン・ホルナイが神経症的要求と言うことを言っている。神経症者のする要求である。心理的に健康な人のする要求と神経症者のする要求とどこが違うのか。彼女は神経症的要求には四つの特徴があるという。今回からその四つを一つ一つ考えていきたい。

先ず第一に神経症者のする要求は非現実的 である。

「要求が非現実的」とはどういうことであろうか?例えば自分が病気になったら皆はすぐに見舞いにくるべきだと思う。そしてそれを当然のことの様に考える。人には人の都合があるとは認めない。自分が病気の時に助けてくれない人が居ると恨む。そして不公平だと感じる。

つまり隣人や家族が天使であることを期待する。みんな自分と同じ人間であると言うことを受け入れない。人が病気の時に助けてくれないのは、常日頃の自分の利己的な行動の「つけ」だとは決して思わない。逆に「けしからん、冷たい人達だ」と自分の日頃の行動を棚に上げて憤慨する。

或いはまた、配偶者はいつも機嫌よくしていて欲しい、機嫌良くないと不服になる。配偶者も人間だから機嫌が悪いときもある。しかしそれを認めない。

自分の招待を誰かが断わる。するとものすごく怒る。人には人の都合がある。しかしそれを受け入れない。 

大して働いていなくても自分だけは昇給するのが当たり前と思っている。「仕事の改善のためにどれだけのことを自分はしたか?」等とは反省しないで、会社で自分だけには良いポジションが与えられるべきだと思いこんでいる。そして対面だけは気にする。

 「情緒的に未成熟な親は子供の自然な成長を待てない」と言う。つまり神経症的な親は子供のうちから大人のような行動を子供に期待する。つまり子供に非現実的な要求をする。子供は子供なのである。

車を運転していて、信号がいつも都合よく青でないとイライラする。完璧な結果を求める。これらの非現実的な要求は外の世界についてばかりではなく、時に自分自身に対する要求についても同じである。床につけば、すぐに寝付けないとイライラする。自分に対する非現実的な要求は通らない。そこで自分に対する怒りが生じる。それが自分で自分を受け入れないということである。

ではなぜ神経症者のする要求は心理的に健康な人と違って非現実的なのか。
 それは神経症者が現実の世界に生きていないからである。自分が現実に生きていないから、他人に理想を求める。現実の自分を省みない。この自分なら相手はこれで仕方ないと言う考えがない。心理的に健康な人は「自分だって、そうするよ」と思うから、相手の言動を許せる。
 また別の言い方をすれば、自分がないから要求が極端になる。幸せになりたいけど、どう幸せになりたいか分からないから神経症者の求めるものは非現実的になる。結婚したい。でもどんな結婚がしたいかが神経症者にはない。神経症者は結婚ばかりでなく何事も抽象的に「なりたい」のである。
 この人と一緒にいたい。そこで結婚したいと言う気持ちになる。この「結婚しよう」という気持ちがエネルギーを生み、幸せを生む。その瞬間が先に繋がる。それが心理的に健康な人である。
 神経症者は夢も非現実的である。それは「現実のむなしさを埋めるための夢」だからである。「私はリンカーンになりたい」という夢である。そしてリンカーンになったら人に愛されると神経症者は思う。人は、抽象的に「なりたい」人にはなれない。
 
 自己実現する人は現実の願望を持つ。給料を「このことに使う」と言う目的があるから、給料の要求が現実的になる。日常生活でお金を使う目的がなければ、非現実的なほど高い給料をもらおうとする。心理的に健康な人で自己実現をしている人は、苦しくても努力すれば手に入る目的を持つ。
 神経症者は具体的な目的がなくて、愛されることが望みだから、非現実的な目的になる。「リンカーンになったらなー」となってしまう。現実に手にはいる人ではなく、とてつもない人になることを望む。

 よく「自分なんかは、、」と言う劣等感を持っている人が、「人類を救済したい」と言うようなとてつもない望みを持つ。そのギャップに周囲の人は驚く。ではなぜ「自分なんかは、、」と言う様な劣等感の激しい人が「人類を救済したい」と言う様なとてつもない望みを持つのだろうか。
 それは神経症者が現実の競争を避けているためである。今の現実では誰も自分を相手にしてくれない。リンカーンになったら人は相手にしてくれる。そこで「リンカーンになったらなー」となってしまう。現実に自分の周囲にいる「あいつのようになりたいなー」では、「あいつのようになれない」自分を確認するだけである。自分の負けを確認するだけである。それでは二重に苦しい。

もう一つ、現実の空しさを埋めるためには、とてつもない夢がいい。現実の競争をすれば負ける可能性がある。今の現実では誰も助けてくれる人がいない。負ければ二重に苦しい。だから神経症者には現実的な目標がない。
 神経症者は周囲からの特別の「愛」を受けることが目的なのである。周囲の人から「わー、凄い」と注目されることが望みなのである。そうした特別の愛を得るためには具体的な計画はない。目的は漠然とし過ぎている。そこで神経症者は日々の生活がどうしても無計画になる。その場その場で心理的に楽なことをしてしてしまう。
 アメリカに贅沢三味の放蕩学生が居た。日本の高校でやっていかれなくなってアメリカの高校にきた。父親がお金があったのでアメリカの高校に留学させられた。しかしアメリカの高校でも、まともに勉強もスポーツもしなかった。高価な車を乗り回して、贅沢なレストランに入って、若者にはふさわしくない生活をしていた。若者にはふさわしくない高価なプレゼントを女の子にして、女の子の気を引こうとした。
 彼がなぜそんな馬鹿見たいな贅沢をしていたかといえば、日常生活の苦しさを紛らわすためである。現実の空しさを埋めるためである。彼は、求める愛が手に入らない苦しさを紛らわすために贅沢をしているのである。  人は具体的な目的があるから地道な努力をする。
 神経症者は友達が居ないと言いながら、自分から友達を作ろうとしないと言う。地道な努力をしていれば、愛は手に入るのに、手に入らないと神経症者は錯覚してしまう。実際の世の中では暗い顔をして、肩を落して歩いていれば、人は寄ってこない。友達が出来ないのは当たり前である。自分から歩み寄らなければ、人はきてくれない。しかし自分から歩み寄るのは神経症者にはきつい。自分に無理をしなければならない。リンカーンになれば人の方から寄ってきてくれる。リンカーンになれば無理しなくても自分の目的は手に入る。だから夢が「リンカーンになったらなー」と非現実的になるのである。

 そして非現実的な要求を持っている人ほど傷つき易い。自分が病気にになれば皆は見舞に来るべきであるという非現実的な要求を持っている人は皆が見舞に来なければ傷つき、怒る。あるいは落ち込む。普通の人はそんなことで傷つかないし、怒らないし、落ち込まない。
 自己蔑視した人は傷つき易いとカレンホルナイは言う。これは考えてみれば当たり前のことである。同時に神経症的要求を持った人も傷つき易い。
 「病気になったら」友達が見舞にきてくれると期待して、「病気になったらなー」と思っていた。その期待が裏切られて、「あいつに裏切られた」と言う。