無理しないほうが愛される</br>自分には「自分の生き方」がある

無理しないほうが愛される
自分には「自分の生き方」がある

 好かれているのに嫌われていると思い込んでいる人がいる。尊敬されているのに、なめられていると思い、傷ついている人がいる。他人から見ると[それ]はその人の長所なのに、その人は[それ]を弱点と思って隠そうと必死になっていることがある。
 この本では人々のいろいろな勘違いの心理について書いた。無理しないほうが愛されるのに、人々は愛されようと無理をする。無理をして辛い思いをして、かえって好かれない結果に終る。

 愛は求めようとしても得られるものではない。
 愛は無理のない生き方をしているとき、しずかに訪れてくる。
 無理のない生き方とは、決して焦らない生き方である。決して虚勢を張らない生き方である。
 自分の今を信じる生き方である。
 悪いことをイメージしないことである。
 一日を大事に送ることである。

泣きたいときに泣かない。
 笑いたいときに笑わない。
 怒りたいときに怒らない。
 愛されたいからそうした無理をして生きてきた。

 無理して生きていない人は、仲間と一緒にいて楽しいから生きるエネルギーが湧いてくる。無理して生きている人は、逆に仲間と一緒にいて不安な緊張から消耗する。
 無理している人は、楽しそうにしているが、無意識ではリラックスしていない。いつも心の底の、そのまた底のどこかで「これじゃない、これじゃない」と思っている。

 無理している人の生き方が基本的に間違っていることを示している。
 誠実な人とのつながりがない。無理している人は心理的には檻の中にいる。

 無理をしなくても手にはいるものがある。
 自分自身を知っている人の努力は実る。

 自分でない自分で生きている限り、することには全て無理がある。どんなに努力しても誠実な人から愛されるようにはならない。
 自分の身の丈以上の自分を周囲の人に見せても、周りにはずるい人が集まるだけである。
無理している人は、それに気がつかない。自分の周りに集まってくる人は、都合よく人を利用しようとする人だけである。
 無理している人は、自分の周りに集まってくる人たちの質を見ない。
 無理している人はこうして、つきあう人を間違えていく。
 そしてそうしたずるい人の人間関係の中であなたは好かれようと無理をして生きてきたのである。

 無理している人が、もし他者への関心を持てれば、付き合う人は全く違ってくるはずである。
 無理している人は、もっと素晴らしい人生がおくれる。それなのに、自分をよく見せようとすることだけに関心があるから人生を無意味化する。
他者への関心が持てればもっと充実した人生、もっと生きがいのある人生がおくれる。もっと楽しい人生がおくれる。
 無理している人は、今自分はひどい人間関係の中にいることに気がついていない。

 病んだ集団に従順な人は、自分の心が殺されていると言うことに気がついていない。
 それは殺人であるが、同時に自殺でもある。人から拒絶されただけではなく、自分が自分を拒絶したことが問題だからである。
 ただ肉体的な死と心理的な死は違う。肉体的な死は生き返らないが、心の死は生き返る。

 心理的に自立しない限り、どんなに辛い努力をしても死ぬまで意味ある人生にはならない。
認められたい、気に入られたい、好かれたい。そうでないと不安。だから無理をした。
気に入られ様とすることで、全てを失う。
自立する不安よりも、辛い努力をしているほうが心理的には楽だった。
 本当は自立への試みをしなければいけない。

 自立性とは、一人でも楽しく生きられること。

 自立とは、自分を信じること。
 独立とは、一人で立ち上がること。
 人は信念があるから生きて行かれる。

ありのままの私を無視するあなたに愛されるために無理な生き方をやめる。ただそれだけである。
ありのままの私を拒否するあなたに愛されるために無理な生き方をやめる。ただそれだけである。
私の適性を無視する、私の潜在的可能性を無視する、私を攻撃する、そんなあなたに愛されるために無理な生き方をやめる。ただそれだけである。
ずるいあなたに愛されるために無理をして、私でない私になることをやめる。ただそれだけである。
 無理している人は、自分がしていることに気がつかない。
 しがみついているのは私の方でもある。

無理をするとは、自分でない自分を、他人や自分に見せながら生きていることである。
 無理しないほうが愛されるとは、自分自身で生きるほうが愛されるということである。
 自分自身でない生き方をすると、周りにずるい人が集まる。
 対象無差別に愛されようとする人は、ずるい人にとって都合良い人でしかない。
無理している人は、自分自身である決意をしていない人である。
自分自身で生きることを決意していないなら、「あなたの期待にそうようにエネルギーを使うことでもう消耗したくない。」と思っても、消耗する。

 無理したから、最後には捨てられた。
 無理したから、周りの誰からも愛されなかった。愛されようとして頑張って苦しんだだけである。
 無理している人は、消耗して倒れるまで、それに気がつかない。
 消耗して倒れたときに、周囲に誰もいない。そのときに、自分はひどい人間に囲まれていたと気がつく人もいる。最後まで気がつかないで死んでいく人もいる。

 しかし実は頑張って消耗した人は、自分がどこか光っていることを知らない。今までの周囲の人があまりにもひどかった。
 無理して生きてきた人はどこか光っている。どこか魅力がある。
辛い人生を必死で生きてきた歴史が、やはり無理して生きてきた人の雰囲気に表われている。
だから、もっと自信をもって広い世界を見よう。
 今までとは別の視点で、自分の人生を見て、自分の生きざまの素晴らしさに気がつこう。

 少し頭を切り替えれば、
 少し積極的になれば、
 少し工夫すれば、
 そんなに消耗しなくても生きられる。

 自分を認めて大手を振って歩きなさい。
 その時にはあなたの道は開けている。

 あなただけの素晴らしい人生。
 あなたにあった服で、
 あなたの好きなペースで生きなさい。
 借り物の人生は止めなさい、
 あなたの人格を作りなさい。

 もし自分がノイローゼなら、
 自分がノイローゼになっていることを否定しないこと。
 ノイローゼで生きた人を参考にして自分も生きればいい。
 「私はノイローゼでもいい」、そう思うことから出発する。
 「私はノイローゼ」と分かることは素晴しいこと。
 原因も分からずに無気力に苛まれている人が居るのだから。

 もし自分が嘘つきなら嘘つきでいい。
 嘘つきを直せばいい。
 「私は何で嘘つきなのだろう?」と、考えて行けばいいのである。
 その原因は必ず分かる。例えば小さい頃からストレスの強い環境にあったとか。
 「私は嘘つきだ、卑怯だ、だから駄目だ」と自己否定してしまったら生まれてきた意味がない。

 シーベリーは、治療は自己イメージを治すことから始まると言う。

無理のない人は強い。
無理をかさねている人は弱い。

 自分のある人。
 自分の能力の中で楽しむ。

 私は愛されていない、
 これが今までの人生の出発点。

 私は愛されている、
 これが新しい人生の出発点。

 「無理しない方が愛される」とは、自分が自分として生きる方が愛されるという意味である。
 無理している人は、病気なのに健康なフリをしながら生きていかなければならない。

 足がロバで、首がキリンだったらどうなるか。
 短い足に長い首。おかしいであろう。
 自分自身ではなく、人に合わせて生きるとはこんな奇妙なことなのである。
 キリンは自分がキリンだからロバを認めることが出来る。キリンが無理をしてキリンでなくなると、ロバを認めることが出来ない。

 「「幸福になりやすいたち」で、特に運がよくなくても幸福になる人もいれば、最高の環境がそろっても不幸な人もいる」[タタルケビッチ]。

 最後に人を救うのは自分である。
 自分が自分を受け入れる、自分が自分を信じることが出来る、それは自分が自分のしていることに納得できる人である。
 最後に自分を救うのは人からの賞賛ではない。人に認められることではない。
 自分が自分を認める。それが人を救う。

出版社: 三笠書房 (2019/10/11)
ISBN-10: 4837928080
ISBN-13: 978-4837928089

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