子供を好きな親が怒るのと、子供を嫌いな親が怒るのでは。

前回体罰の子供への影響について書いた。ほぼ同じことが言葉による批判についてもいえる。
 
私は言葉による批判の場合でも子供を好きな親が怒るのと、子供を嫌いな親が怒るのでは子供への影響はまったく違うと思う。
 
子供を好きな親が子供を怒る。それは子供が大人になってから、懐かしい思い出になる。子供は親が自分を好きなことを信じている。この場合、子供にとって親が怒るのと、笑うのとでは、同じことなのである。それは春の日にポカポカした陽気があり、涼しくて気持ちのいい日があるのと同じである。どちらも春の日なのである。親が怒っても子供は怯えていない。 
 
反対に親は本当は子供を嫌いだったとする。でも、好きな「ふり」をして時々は笑顔でいた。そして時に「怒った」。こんな環境の子供は親が笑顔でいる時も、いつも怯えて「良い子」でいる。
 
子供を嫌いな親が怒るのと、笑顔でいるのとは、子供にとって同じ季節の出来事ではない。笑顔は蒸し暑くて不快指数の高い夏の日であり、怒った顔は凍死するような冬の日である。
 
神経症的な親にとっての「良い子」とは「良い子」といわれなければ生きて来られなかった人達なのである。「良い子」でいることは辛いことだった。しかしそれがどんなに不快でも、親が怒る冬の闇夜よりはよかった。どんなに不快でも蒸し暑い夏の日なら生きていられたが、寒い冬の日では凍死してしまう。
 
親が敵意を持っていたら、子供は問題を起こす。子供が問題を起こしたときには、辛いけれども私たち親は自分のなかの敵意を反省して見ることが必要だろう。
 
体罰もその様ななかでの体罰だからこそ子供の心は深く傷つくのである。時にその傷に一生支配される。