子供はそれを親を喜ばすために言っているだけである

子供がお花に水を上げた。得意になって母親に話す。そこで母親は「きれいねー」と誉めてあげる。そして「あなたやさしいのね、お母さん嬉しい」と言えば子供は喜ぶ。さらに「いいことしたわね」と言えば、これが道徳教育である。
 
子供がセミをとってきた。汚い手である。それを見て母親が「まー、汚い手、洗ってらっしゃい」と言う。ある論文(井村恒郎・木戸幸聖、コミュニケーションの病理、異常心理学講座〈井村恒郎、懸田克躬、島崎俊樹、村上仁、責任編集〉弟九巻、みすず書房、273頁)に出ていた例である。

この時に子供と心の触れ合う母親は、「あー、そー、よく取れたねー、凄いわねー、ちょっとどんなセミ取れたのかお母さんに見せて!」と言う。そう言ってあげれば子供は得意である。
 
母親はそう言ってから「セミも生き物だから離してあげようか」と言えば、それで子供も満足するし、道徳教育も出来る。子供にとっては取れたセミを見せたところに意味がある。この子供の気持ちを汲んであげることで子供の愛情要求が満たされる。
 
筆箱のなかに虫をもっていた子供がいた。母親は「筆箱は鉛筆を入れるもので、虫を入れるものではありません」と怒った。しかし虫を見せた子供は母親の関心を引きたかったのである。だから「何匹いるの?」と覗いてあげればいい。それが子供の気持ちを汲んであげることである。
 
ある時に子供が好きな人と一緒にいた。その時に母親が「さー、行きましょう」と言った。子供は「ちょっと、待って今お茶を飲んでいるのだから」と言った。子供は別にお茶を飲んでいるということを言っているのではない、まだ居たいということを言っているのである。
 
最近は子供の気持ちを汲み取らない母親が多い。子供を愛する能力とは子供の気持ちを汲み取ってあげる能力である。
 
最近は親のほうが自分の気持ちを汲み取ることを子供に要求している例が多い。親子の役割逆転である。父親が車を買って得意である。そこで車を見た子供が「わー、嬉しい!お父さん、凄ーい!」と言う。本当は子供は別に車が嬉しくはない。父親を喜ばすために言っているだけである。これで父親はエネルギーが出る。
 
しかし親子の役割逆転は子供が自分のなかの自然な子供を表現する機会を失い、心理的成長に失敗する。