コロナ感染症問題の議論のどこが間違っているか? (2020.08.11)

僕は大学院の頃のゼミで、ヘーゲルの歴史哲学をやっていた。一つだけ今でもよく覚えているのが、ヘーゲルが「歴史で難しいのは、正しいことと、正しいことの矛盾衝突だ」と主張したことである。ああ、「なるほどな」、と納得した。
正しいことと、間違ったことの衝突っていうのは、これは簡単である。これは正しいことを選択するほうがいい。
だけど、本当に難しいことっていうのは、つまり歴史がいろいろ判断に苦しむのは。正しいことと、正しいことの衝突である。
ヘーゲルの歴史哲学に学ぶまでもなく、歴史上常に難しいのは正しいことと正しいことの矛盾対立である。

 つまりコロナ感染症問題では議論の視点そのものが間違ってしまう。
コロナ感染症解決と、景気回復の両立を目的とするということ自体が間違っている。
さらに恐ろしいことは、二つの矛盾だけが議論されていて、最も重要な心の崩壊が議論されていないことである。
とにかくこの国難のなかで安易に日本が成長することを期待している。そんな魔法の杖はない。
 その結果恐ろしいことが起きる。
 つまり現実を都合よく歪めて解釈する。これは楽観主義ではなく、ナルシシズムである。
 今日本が陥っている最も恐ろしいことはこのナルシシズムである。現実否認である。
 国は、蒙古襲来以来の国難に対処する知恵も勇気もないままに、ナルシシズムという幼児性に逃げてしまっている。
 さらに、こんな歴史上の国難の時代に、安易な解決しか語れない国のリーダーの心には未来がない。
 今の時代の議論のもう一つの間違いは、時間的枠組みの短さである。一ヶ月先、半年先、1年先しか考えていない。
 最も恐ろしいのは、今のような安易な解決法で逃げていると、20年後、30年後にもっと恐ろしいことが起きる。
 今の安易な解決法で行くと今の幼稚園、小学生が、40代、50代という、国を背負う時代になった時に、手のつけられない惨状が現れる。
 一口でいうと、共通感覚の崩壊である。「なんで人を殺してはいけないんですか」という少年の様な感覚を持ったビジネスパーソンが現れてくる。

 今の安易な解決法という中には、コロナ感染症の収束と、経済の回復を両立するというだけではなく、心の崩壊が無視されている。このままでいくと心の崩壊が議論されない。

その上に解決を考える時間的枠組みが短すぎる。
 さらに恐ろしいのは「新しい様式」ということが言われ始めたことである。現実の解釈が、先に述べたようにナルシシズムによる現実否認という間違いが、その上に重なる。
テレワークなど形のことのみのことが議論される。

なぜ日本の労働は生産性が低いのか?
日本の労働生産性は1970年代以来ずっと、先進国 中最下位の座にある。
労働生産性が先進諸外国と比較して著しく低い。40年以上も前から先進国では最下位という状況。日本人の賃金が上昇しないのも、働き方改革という間違った解釈であるが、その解釈の安易さが、今回のコロナ感染症問題の解決の態度にも表れている。
言葉だけは「新しい生活様式」と言って色々な言葉が出てくるが、全て形式で、内容ではない。心ではなく外側の形式である。
「新しい生活様式」といいながら心の姿勢について、過去に固執している。過去に囚われている。
 形のみ言葉が踊っている。
 生産的生き方、生産的心構えを考えているのではない。
 過去の非生産的生き方への固執である。そして言葉だけは「新しい生活様式」
これが日本の労働生産性が1970年代以来ずっと、先進国中最下位の座にある原因である。
非生産的生き方とはフロムの言葉を借りれば、具体的には貯蓄型、市場型、受容型などである。

 動物の親子はじゃれ合う。
 動物は全部じゃれ合う。ライオンも、犬も意味もなく親が子どもと戯れている。
それがふれあいである。
 親子でじゃれている。
 コロナ感染症の時代はなによりも子ども同士もじゃれあわない。子どもが子どもを嫌いになる。

 今の日本は親が子どもと戯れてくれなかった。
 ふれあわない。
 動物は全部親子でふれあう。ライオンも、犬も意味もなく親が子どもと戯れている。それがふれあい。
 親子でじゃれている。
 子ども同士が嫌いなら、じゃれない。

安定した家庭というのは心理的に「一緒に」暮らしていた家庭なのである。
 安定した家庭とは、先に書いた「母親と一緒に布団にシーツを引いた後で、シーツの上で飛び跳ねて母親とじゃれる。シーツをくしゃくしゃにした後でお水を飲む。」と言う母親との戯れがある家庭である。
 子ども時代、夜の寝る時間が来る。母親と一緒に布団にシーツを引いた後で、子どもはシーツの上で飛び跳ねて母親とじゃれる。
シーツをくしゃくしゃにした後でお水を飲む。

 今は、ふざけることが怒りになる。
親が子どもと戯れてくれなかった。
 ふれあわない。
歩行者天国に車を突っ込んだ秋葉原無差別殺傷事件が起きたときに新聞などでしきりに言われたことは親と「ずっと疎遠」「註、読売新聞朝刊、2008/6/13」であったと言うことである。
なぜ疎遠になるのか?
 それは幼少期に仲間や親とそうしたじゃれる体験が無かったからであろう。

 子どもは何でもしゃべれることによって心理的に成長できる。
 子どもが社会性をもった大人になるために必要なことは「いわゆる子ども時代があったか、なかったか?」を言うことである。
 そのことは、何でもしゃべれる親や仲間がいたかどうかということである。そういう時間を持てたかどうかと言うことでもある。
 その意味で子ども時代に、親も仲間も話しやすかったかどうかというのは大きな意味を持つ。そういう人間関係のなかで成長したかどうかである。
 そういう人間関係が否定される社会的距離の時代である。

 今必要なのは、決断である。つまり選択。心の崩壊を防ぐ、コロナ感染症の収束か、景気回復を選択するのか、今の安楽を選ぶか、未来の意味を選ぶか。
 全てが欲しいというのが、幼児性である。その結果は全てを失うことになる。