2003

うつ病と晩秋の木の葉 [2003/12/01]

明治通りから早稲田大学理工学部の正門までの道は銀杏並木である。そして晩秋には黄色くなった葉が散っていく。

この通りは公園のような雰囲気になる。地面にずーっと黄色がある。道が色紙のようになる。

銀杏は姿形が全ていやしである。銀杏の木は天空に向かう。

子供は疲れると黄色を使うと幼稚園の先生が教えてくれた。

子供も大人も黄色に心が癒されるのだろう。黄色くなった銀杏並木を通ると何故か心が洗われる。 

紅葉はお寺に多い。お寺は生と死を考える。

真っ赤に燃えて散っていく紅葉のはかなさに心が癒されるのだろう。

秋は木々が色づくが、晩秋になると散っていく。

秋の思い出をためた木は、綺麗な色になって晩秋に、未練なくして綺麗に散っていく。「夏も秋も楽しかったなー」と思い出を咀嚼した木は、来年も美しい色を見せる。

ところが晩秋によく観察するとなかなか散らないで、木にしがみついているような葉がある。

「今年の夏も秋も、イヤなことがあったなー」と思う木の葉は「もうちょうっと秋を楽しみたい」と木に執着する。

みんな秋を楽しんで散っていくのに、こういう葉は木に執着する。冬になるのイヤだよと木に執着する。

季節の神が「もう晩秋なんだよ」と言うのに、「イヤだよ」と言っているみたいである。

初秋の時に、「夏、夏」と言っていて、晩秋になると今度は「秋、秋」と言っているみたいである。

秋を楽しみたいのに、その前に冬になっちゃった恨みであろう。

秋は、心の思い出をためる。そして冬になる。

今日本はうつ病の増加が大問題である。書店にはうつ病の本が溢れている。
うつ病になりやすい性格は執着性格である。晩秋になっても散っていかれない葉の様な性格である。

秋の幸せ [2003/10/02]

長い夏が過ぎて秋が来ました。

秋は、芳香な香りをあたり一面に漂わせ疲れた心をしばし癒してくれます。

醜い心を美しくかえてくれるのも秋です。

人間、情熱の時に生きている、と私達は思っています。でも情熱の時は必ずしも幸せの時ではありません。

情熱の時を過ぎてテンポが落ちて、熱いところから抜け落ちたときにふと感じる幸せがあります。それが秋の幸せ です。秋はそんな生き方の時です。

しゃきっとした黄色は秋には似合いません。

全部がなくなってたった一つ残るものが、与えてくれる幸せがあります。それが秋です。

春から夏にかけてが、青春の時です。そして秋から冬への時が、真に成熟した生き方を表している時かも知れませ ん。

春から夏は自然から人間がエネルギーをもらっています。秋には葉が落ちて、最後には何もなくなります。そこか ら人間の真のエネルギーが出る時が始まるのではないでしょうか。

まあまあの平凡な毎日 [2003/08/18]

今、ボストンに居ます。ハーヴァード大学ライシャワー研究所に属しているので、こちらで研究をしています。

ボストンは雨、また雨の日が続いています。こちらに来てから二週間たちますが、雨の降らない日は一日もありま せん。

去年はボートや泳ぐ人で活気のあった夏の湖も、閑散としています。こちらに来る前、テレビで七月の中旬になっ ても閑散としている日本の海の家を放映していましたが、それと同じです。

あれほど多くの人が夏を楽しんでいた美しい湖が、何か水までも去年の方が綺麗に感じます。

天候から始まって、日頃当たり前に感じていることも、実は有り難いことが沢山あるのだなと思いました。湖を見 ていると、当たり前のことに対する感謝を忘れていたことを思い出させてくれます。

私たちは「つまらないけれどもまあまあの平凡な毎日」を不満に感じますが、「なんか知らないけれどもこれでい いんじゃないのかな、」と感じたときには大変恵まれた人生を送っているときなのでしょう。

梅雨と心理的成長 [2003/06/25]

梅雨になりました。お元気ですか。シトシトとふる雨、パラパラとふる雨。その色々にふる雨の様子を見ながら 、梅雨の季節は人間が心理的成長を遂げるのにふさわしい季節かも知れないと思いました。

私たちは「あの人が私の悪口をこう言った」と腹を立てたりします。でも、もしかしたらあたっているかも知れま せん。そう反省するのにはこの梅雨は適切な季節です。或いは、よく考えると「あの人と私との関係は、いつも人の 悪口を言う関係だったのかなー」と自分の人間関係の内容を反省する季節でもあるのす。

悪口を言う人を見て、愚痴を言う人を見て、逆に自分を見つめる。

それを見つめる時、人は心理的に成長する。

梅雨は人間が成長する一つの段階です。自然界では雨が降るからお米がとれる。雨でお米を作るように、梅雨の時 に人は心理的成長を達成する。

サクラ花咲く春4月ではなかなか反省できません。また夏の暑いさなかでもなかなか反省は出来ません。

梅雨は自分を見つめるのに良い季節だと思います。

30万回のアクセスに思うこと [2003/06/08]

ホームページのヒット数が30万回を越えました。殆どの訪問者は時代の課題を正面から受け止め、真剣に生きてい る方達だと確信しています。川島君が作ってくれてから私たちは、そういう意味で一回一回のヒットを皆で重く受け 止めてきました。

今の日本は岩盤の所が危機に瀕しています。この激動の時代の中で、職業や年齢を問わず人々は押し寄せる難問に どう対処して良いか分からなくなっています。指針を喪失した社会の中でこのホームページが少しでも訪問者の生き る指針になればと研究室の担当者を中心にして皆で頑張ってきました。

これからもさらに内容を充実して、新しい未知の時代に向けて、小さい松明の役割を果たせる心理学研究室のホー ムページにしていきたいと思っています。
これからもこのホームページをさらに改善していくために皆さんの声をお聞かせ下さい。

季節の雨 [2003/05/20]

このところ雨が降ったり晴れたりという日が続いています。

街を歩いていて雨が降り出すとパッと傘が開きます。それを見ていると「傘は春に似合うなー」と思います。このところカラフルな女性の傘が多くなった気がします。そのせいか雨が降ってきてパッと咲く傘は、花なのです。花だから傘は春に似合うのでしょうか。

それと比べると秋は蛇の目が似合う気がします。蛇の目は咲いてはいないのです。

街の中にいても雨の後ろに季節を思い、雑踏の街を歩いていても出来れば四季を感じながら生きていたいものだと思います。

アメリカ・インディアンは雨の後ろにも神を感じます。アメリカ・インディアンは雨に濡れた時に私達と違った感覚を持ったでしょう。それは雨の恵みを感じているからでしょう。

雨を雨だけと考えれば、雨は濡れれば気持ちが悪い。しかし雨が降ることで大地に収穫がある。それが、自分が濡れる以上に嬉しことなら、雨に濡れても気持ち悪くはないでしょう。

私たちにとったってもやはり雨が降らなければ困るのです。

私も雨が降ると「雨か、イヤだなー」と思いますが、出来れば「雨も良いものだなー」と言う気持で雨の日を過ごしたいものだと思います。

4月の新学期が始まりました [2003/04/08]

ボストンに居たために3月の卒業式に出席できませんでした。4月の2日に帰国して研究室に行くと、僕の授業をとって卒業していった学生から「素晴らしい授業を有り難うございました」云々と言う手紙がポストに入っていました。それを読んで「さー、今年の授業も頑張ろう」と言う気持になりました。

人を意欲的にする人は意識的にそうしているのではないでしょう。その人にとって自然な行動が自然と人にエネルギーを与えているのでしょう。

私はそういう人が「徳を積む人」だと思うのです。本当に「徳を積む人」と言うのは特別に何かをするのではないが、毎日の生活そのものが周囲の人に恩恵を与えているような人なのでしょう。そして恩恵を与えたと言うことも本人は意識していないのでしょう。

先生とかコーチとか親とかは、相手の意欲を引き出そうとして「頑張れ」と言いますが、それでエネルギーが湧いてくるのではないでしょう。頑張ったときにそれを認めてくれる人がいて、人は意欲的になるのでしょう。  

この月をアメリカ・インディアンも見ていた [2003/03/16]

今私はボストンの郊外にいます。今年のボストンは30年来の寒さです。本当に大地が凍てついている感じがしま す。寒さで水道管が凍って水道が出ないこともありました。

厚く氷の張った湖の上に真っ白に雪が降り積もっています。さらにその上に深々と雪が降り続けます。

これだけ寒いと心から春が待ち遠しいです。

きっとこの寒さの中でも、よくみれば草木も芽吹く準備をしているでしょう。

そしてこの厳寒の冬が過ぎ去って春が来ると、きっと過ぎ去った寒い冬が違って見えてくるのでしょう。

この雪に覆われた大地の上に夜空が広がっています。私は月を見ながら、ふとこの同じ月をきっと千年まえのアメ リカ・インディアンも見ていたのだろうと思いました。その時に悠久な時間の流れを感じました。

アメリカ・インディアンも私と同じようにこのお月さまを見ていたんだと思ったら、その時間の悠久な流れに比べて私の存在の有限性をしみじみと感じました。
そうしたらそんな有限な存在が考えたことはそれよりももっと限られた事ではないかと思えてきたのです。そして そんな限られな事にとらわれてこの短い人生を終わっていいのだろうのかと思いました。

そう思ったら、この人生を悔いなく生きようという気持になりました。

自然はすごいと思います。何も語ってくれないけれど心から突き上げる勇気をあたえてくれます。

厳寒のボストンも、もう2週間もすれば春の気配になってくるのでしょう。

風邪とストレス [2003/02/09]

皆さんお元気ですか?風邪が大流行しています。僕も実は久しぶりに風邪を引いてしまいました。そこで今回のコラムは少し風邪について書きます。

1991年の秋、極めて信頼されている雑誌 The New England Journal に心理状態と病気との直接的な関係が発表された。ストレス状態と風邪のヴィールスの伝染との驚くべき関係が示された。ストレスで免疫力がおちることが示された。 風邪のヴィールスにさらされている人は、ストレスによって風邪にかかりやすくなるということである。

私が、「アメリカ・インディアンは風邪をひかない」と言うと、たいていの人は「本当ですか?」と疑いの目で私を見る。しかし本当である。それがインディアンの物凄い体力の証明なのであるが、同時に彼らが私達ほどストレスに苦しめられていないということであろう。

「インディアンの教え」のなかで著者のジェームスは、インディアンは風邪を引いた経験がないと書いている。二十六年間インディアンと生活を共にした学者の話である。

なぜそこまでインディアンは健康なのか。

ジェームスは、インディアンの戸外の生活を書いたところで、ただ奇麗にすることだけの白人の生活を非難し、「インディアンのところに行き、インディアンの哲学を学び、基本的なものを最も大切にしろ」と書いている。そして基本的なものとは健康、幸福、寛ぎ、平和、満足、愛である。彼はまず何よりも健康の大切さを考えている。彼は人生で何よりも健康に価値を置いたようである。

著者はインディアンと生活をはじめる前には二十二年間も深刻な病で苦しんでいたと言う。そしてインディアンと生活をはじめてから、すこぶる健康になったようだ。

私達も人生で基本的に大切なことに目覚めて,ストレスの少ない生活をしたいものである。

晴耕雪読 [2003/01/14]

年末年始とハーヴァード大学で研究をしていました。ボストンはクリスマスもお正月も大雪でした。まさに雪に埋もれて生活をしていました。
晴れた日には畑を耕し、雨の降る日には読書をするのがよいと「晴耕雨読」と言いますが、確かに雨の日は考えるのに適しています。でも雪の日も気持ちが落ち着いてきて、読書をしたり、考えたりするのに適している気がしました。

ボストンの郊外は家々が雪の中でクリスマスの飾り付けに特徴を持たそうとして、それぞれが違った飾り付けをします。そのため住宅街全体がクリスマスの雰囲気になります。

そしてクリスマスが終わっても、新年になっても、雪と同じようにクリスマスの飾り付けは消えません。私が帰ってくる7日頃になってもまだ飾り付けをしている家もありました。

アメリカはお正月よりもやはりクリスマスが季節の中心で、公立の小学校なども一月の二日から始まります。初めて新年をボストンで迎えたときには、二日から公立の学校が始まることに驚きました。

そして一月元旦でもモールは普通にお店は開いています。人々は別に着飾った服装で歩いているわけではないので、元旦という気はしません。

国も人も、このようにそれぞれ個性があって楽しいのでしょう。情報通信革命とかで、それぞれの国の文化が個性を失ってしまうとすれば淋しいです。