悩まずにはいられない人

悩まずにはいられない人

風邪一つで嘆き悲しんで大騒ぎする人もいれば、癌と言われて冷静な人も居る。
悩んでいる人にとっては、客観的な困難が問題ではない。

いつも悩んでいる人が客観的に辛い環境にいるわけではない。
人は客観的に見て困難なことに嘆き苦しんでいるのではない。
しかし悩んでいる人にとっては、それはそれほど苦しいことなのである。
悩みを顕微鏡で見ている人にとっては、困難はその見ている大きさなのである。
カレン・ホルナイの言うごとく「現実の苦しみとその個人の実際の不幸に対する態度とは大きな違いがある。」

つまりたいしたことではないのに、嘆き悲しむ人がいる。
逆に極めて困難な状況で心の平静を保っている人がいる。
また現実の困難に対して感情的困難という言葉がある。
感情的困難(Emotional difficulties)とはフロム・ライヒマンの言葉である。
うつ病者等は要するに感情的困難に陥っているのであろう。
地獄には現実の地獄と、心の地獄と二つある。
現実は天国で、心は地獄で自殺する人は居る。そこが心の恐ろしさである。
現実の苦しみと心の苦しみは違う。この本では心の苦しみを考えた。
心の持ち方で幸せになれる場合と、心の持ち方ではどうにもならないことがある。
この本では心の持ち方で幸せになれる場合を考えた。
幸せになれるのにならない人について考えた。

人間が幸せになりたいと願い、幸せになる努力をし、幸せになれるなら、こんな有り難いことはない。
人間は幸せになりたいと願いながらも、実際には不幸になるように行動する。
それがこの本のテーマである。
幸せになるためには「なぜ、人は幸せになりたいのに、不幸になる努力をし、不幸になるように行動をするのか」ということを理解することが必要である。
人が本当に幸せになるためには、この点の理解が欠かせない。
幸せになりたいと口では言いながら、実際には不幸になるために頑張っている人がいる。 より不幸になるように努力している人がいる。
人は誰でも「私は幸せになりたい」と思っている。誰でも「私は悩みたくない、悩みのない人生がよい」と思っている。
しかしもしそうなら「私は前向きな生き方がしたい」と思ったときに、どうして前向きの生き方が出来ないのだろうか。
人は前向きの生き方をしようと決心しても、なかなかそうはならない。意志したとおりには自分が動かない。
「自分の考え方を変えよう」と思ってもなかなか変えられない。
「私は悲観的なものの考え方を変えたいと思った」、それなのに変えられない。
どうして悲観的な考え方を変えられないのだろうか。
なかなか自分が思った通りに行かないのは、意識という視点からしか自分を考えていないからである。
意識と違った無意識という別の視点で自分を考えたら、自分は違ったことを望んでいるかもしれない。
なぜ人は意味がないと知りつつ、クヨクヨ悩むのか。 嘆いていても事態は変わらない。しかしいつまでも嘆いている人がいる。
なぜ人は自分から不幸の部屋に入っていくのか。 理屈では説明できない人間の心理をこの本では考えた。

悩んでいる人はいつも何かに悩んでいる。
そして今現在悩んでいることが、悩みの本当の原因なのではない。
「苦しい、辛い」と悩んでいることを通して無意識に蓄積された怒りを間接的に放出しているのである。
だから悩んでいる人にとって悩んでいること自体が救いなのである。
「苦しい、辛い」と悩んでいることが安らぎなのである。
「苦しい、辛い」と騒がなければ、蓄積された怒りを表現できない。
「苦しい、辛い」と騒いでいることで、無意識の必要性を満たしている。
「苦しい、辛い」と訴えることの目的は何か。
何かに失敗した。何かを無くした。しかし事態を改善するエネルギーはない。 かといって現実を受け入れる心の能動性もない。
そうした場合嘆いていることが心理的に最も楽である。
「悩むまい」と思っても悩まないでは居られないのだから、それは悩み依存症である。
悩むことは辛いし、自分のためにはならないし、悩まないと決心するけれども、悩まないではいられない。
悩み依存症の人は悩むことを通して無意識の欲求を満たしている。蓄積された怒りや憎しみを表現している。
だから悩むことは癒やしなのである。
自己憐憫していても人から嫌がられるだけである。でも自己憐憫する人は自己憐憫をやめない。
では自己憐憫することの目的は何か。 そもそも自己憐憫する人は自分が自己憐憫していることの目的に気がついていない。
この本で考えたのは、それらの目的である。[15/03/15]

出版社: PHP研究所 (2015/3/14)
ISBN-10: 9784569824093
ISBN-13: 978-4569824093

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