【年頭所感】(2022年)

新年のご挨拶を申し上げます。

  現代の日本は、共同体の個人として生きることに失敗し、
ドメスティック・バイオレンス 、幼児虐待、いじめや不登校、パワー・ハラスメント、ニート、最後は引きこもり。
問題山積のままで、新年を迎えた。

テンニースの言うごとく、ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの流れの中で、多くの人は人生が行き詰まる。
どんどん悩んでいる人が増加し、さらに深刻になっていく。
解決は、人々が視点を増加する以外にないだろう。
表面的にみると、日本よりアメリカの方が問題山積に見えるが、 そのようなことはない。
 
  私はハーヴァード大学の図書館で、劣等感の本を探して驚いたことがある。他のテーマの本に比べて劣等感の本が少ない。それだけアメリカ人にとっては、日本人と比べて劣等感が問題ではないと言うことだろう。
 「何故か?」と、考えた。
それは、アメリカ人の方が物事を色々な視点から見ているからだと推測される。
 
 私は一般的に言えば、日本人よりもアメリカ人のほうがマインドフルネスであると思っている。アメリカでは一つの視点からしかものを見て判断しないようになっているからである。
例えば大学入試だって、日本とは違う。成績と言う一つの視点で受験生を判断しない。成績も一つの判断材料にしか過ぎない。
受験生が大学を受けるのに「私はこんなこともできる」と自分が受けたい大学に自分を理解してもらおうとする。大学もそれを歓迎している。

 ある学生は、「私はピアノをうまく弾ける、だから私のピアノ演奏を聴いてくれ」と入学事務所にアポイントメントをとった学生もいる。その学生は別に音楽を専攻しようとする学生ではない。
また別の学生は、自分の描いた絵を入学事務所に送った。この学生も別に絵画を専攻する学生ではない。経済学を専攻したい学生である。こんなことは珍しいことではない。
 私の知っている例で、面白いと思うのは「私はこうして非行少女から立ち直った」というエッセイを書いて送って大学に入学した学生である。アメリカの大学は、とてもとても成績という一つの視点から受験生を判断しない。できる限り多くの視点から、受験生を評価し判断しようとしている。
 ハーヴァード大学も「成績が良いからといって、入学できるわけではない」と言っている。
またある大学は、入学の願書に「この大学に入学する前に高校の卒業ができるか」というのを書く欄まである。
おそらく飛び級などでとんでもない人が入学願書を出してくるからだろう。二十六歳でハーヴァード大学の助教授になるような人が現われる社会である。

あらゆるところがこうなっているから、物事を一つの視点から見ない習慣が日本人に比べるとついているのではないかと思う。
 この傾向が、アメリカ人が日本人に比べて劣等感がないことの一つの原因ではないかと思う。
 だから大学入学に際しても、いろいろの推薦状を書いてもらう人がいる。もちろん高校の先生の勉強上の推薦状は多くの大学で提出を求める。しかし先生とはまったく違う推薦状を出す受験生もいる。
つまり自分を知っている人からの成績とは違った視点から、自分を推薦してもらおうというのである。
 
 そして高校自体も、日本のように有名大学への進学率という一つの視点から評価されない。高校自体も自分の高校はこういう高校であると言うことをはっきりと主張している。
私が高校の案内書を見ていて面白いと思ったのは「我が校のキーワードはリラックス」とパンフレットに書いてあった高校である。もちろん逆の高校もある。「我が校は競争的である」と書いてある。
それぞれが自分の信じる教育の在り方を主張している。

 受験生も一つの視点から評価されないし、学校自体も一つの視点から市民から評価されない。高校も受験生を一つの視点から評価しないが、受験生も高校を一つの視点から判断しない。
だから、高校も受験生に自分をよく知ってもらおうとするし、受験生も高校に自分をよく知ってもらおうとする。
 
 要するに、高校入試も大学入試と同じである。
フィリップスアカデミーという天下の名門高校の入試の面接をしている先生と話した。
 「何を基準に学生をとるか?」と私が聞いたときに、
「いろいろなことを判断して」と言ったあとで、
「私は成績も見るが、それ以上にその受験生の創造性だ」と言った。

 視点を限定すると、現実との接点を失う。

(その他の年の「年頭所感」はこちら)