行動と動機4

第4節 行動と動機
少年犯罪との関係で始めたテーマである「行動と動機」の問題を今回は子育てとの関係で考えておきたい。
 
ある子供が学校から帰ってきて「苛められちゃった」と言った。母親は驚いて学校に飛んで行った。教育委員会に調査を依頼した。しかし苛めの事実はなかった。
 
この母親は子供がなぜ「苛められちゃった」と言ったのかと言う動機を考えていない。子供はこの時には「苛められたけど、ボクは負けなかった、強いだろう」と言う自慢をしたかったのである。子供がなぜそう言ったかの動機を考えれば、母親は「そう、ボク強いんだ」と言ったに違いない。そう言っていれば、子供は満足して成長出来たのである。
 
この母親は教育熱心であるにも拘わらず、この子は大学生になる時にはノイローゼになっていた。

子供が何を食べても何を飲んでも満足しないと嘆いている母親がいる。子供が「お母さん、お金がないからアイスクリームでなく、かき氷にしてあげる」と言った。
 
そこで母親は子供にかき氷を買ってあげた。でも子供は嬉しそうにはしなかった。
 
次の機会に母親は子供にアイスクリームを買ってあげた。でも子供は嬉しそうにしなかった。
 
この母親はなぜ子供が「かき氷にしてあげる」と言ったかという動機を考えていない。子供の気持ちを汲み取る母親は、「有り難うね、そこまで考えてくれるのね」と言う。
 
すると子供は嬉しそうにかき氷を食べる。子供は母親に恩に着せたかった。かき氷も食べたかった。嬉しそう食べる子供は好きなものを食べて母親に恩に着せられた。そこで子供は満足し、成長する。
 
動機を汲み取ってあげないとアイスクリームを買ってあげても、かき氷を買ってあげても子供は嬉しそうな顔をしない。子供の動機にあわせてこちらが対応すれば子供は満足し、成長する。

ある時、幼稚園の一室で子供が「空から砂糖が降ってきた」と言った。それを聞いて「ワー、バケツ持って屋上行かなくちゃー」と叫んで、バケツを持って屋上に行った幼稚園の先生が居た。それを聞いて母親の方は子供を「うそつき」と言った。
 
この二人の違いはどこから出てくるのだろうか。先ず母親は子供に関心がない。先生は子供に関心がある。母親は「この子」に興味がないから子供が自分に語りかけてくれたことに喜びがない。  この子供は話の内容はどうでも良いのである。そこに居る人と心が触れたかった。先生は、なぜ子供はそんなことを言ったかと言う動機を重視した。
 
子供は「ふれたい」と言う気持ちから、砂糖が空から降ってきたと口から出任せに言ったのである。その触れたいという気持ちを汲んでくれた先生と、言ったことの内容を問題にした母親との違いなのである。もちろんこの子は、この先生が好きで自分の母親が嫌いである。

子供がテストで零点を取ってくる。神経症的母親は、「どうして頑張らないのよ、あなたが困るのよ」と怒る。これは励ましではなく、脅しである。このように脅したり、不安にさせて人を動かすことは出来る。しかし後に憎しみが出る。
 
心理的に健康な母は、零点の答案を持ってくる子供の気持ちを考える。そしてその子の心の傷を汲み取って、「隠さないでよく持ってきたわねー、今度から頑張ろうね」と慰める。隠さないことはいいことと言う教育もできてしまう。

子供はなぜ切れるか?
 
子供が種を蒔いて芽が出た。種をびっしりと蒔いたものだから、芽も出すぎた。そこである人が芽引きをした。芽を持っていってしまったことは正しい。
 
しかし子供は「悔しい」と騒いだ。子供は努力したことを簡単に受け取られた。それが悔しいのである。そうしたことが繰り返され、積み重なると子供は「切れる」。
 
アメなら「あげろ」と言われればあげられる。玩具なら「あげろ」と言われればあげられる。そうしたことは「こうしろ」と言われたように出来る。教えられたことを出来る。
 
しかし自分が努力したことを「こうすべき」と言う立場から、簡単に「こうしろ」と言われると、そうは出来ない。「切れる」のは一生懸命したことを認めてくれないときである。
 
叱られて切れるのも同じ事である。こんなに一生懸命しているのに叱られる筋合いはないと思うからである。辛いのは自分の気持ちを理解されない時である。これは大人も子供も変わりない。

子供が今日宿題をすると母親と約束した。しかし実際にはしなかった。そこで母親は子供を叱る。「約束を違えた」と叱る。子供は震える声で「やろうとしたけど出来なかった」と言い訳をする。そこでその言い訳を聞いて母親はもう一度子供を叱る。
 
しかしその様なことを続けても子供は意欲的にはなってはいかない。子供は宿題をしなかったが、やろうとはしたのだろう。やる意志はあった。しかし実際の行動には至らなかった。
 
そこで「やろうとはしたのよね」といったん子供の心を汲み取れば、子供の気持ちは安定する。そして次には実際にすることになるだろう。それを「やろうとした意志」を無視して子供を叱るから子供はいよいよやる気を失う。中には「お前はどうしてそんなにダメなんだ」と言うような言い方をして子供を責める親もいる。
 
子供がなぜ約束を破ったかと言う動機である。母親への反抗とか、学校の先生が嫌いとか言う動機で意図的に約束を破った訳ではない。
 
体罰の善し悪しも同じである。子供を愛する動機からの体罰と憎しみからの体罰では子供への影響は全く違う。
 
子供を愛する気持ちからのしつけをしたら子供は納得する。例えばマナーを厳しくしつけられたけども、楽しい食事だったなどと言う場合である。しかし父親が偉大さを示すために厳しくマナーをしつけたら子供は恨む。

子供の動機を考えない母親は激励の時期も間違える。
 
子供が集中してやっているときには、激励をする必要がない。お節介な母親は子供が集中しているときに、激励してうるさがられる。相手を見ていない。集中しているときにはほっておく。あくびを始めたらお茶を入れてあげて、「頑張っているわねー」と言えばいい。その激励のタイミングを間違える。激励は勉強が終わった後。やっている最中はいけない。

人は同じ様に煙草を吸っていても、動機は違う。高校生の煙草は大人への反発から。大人の煙草はストレスから。キャリアーウーマンの煙草は「仕事が出来るふりをしたい」から。ホームレスの煙草は「やすらぎ」から。
 
だからそれを止めさせるにはその動機に応じて対策をとらなければ無理であろう。

アメリカの「たいへん効果的な人々の習慣」という本に著者の次のような体験が紹介されていた。「あるときに日曜の午前中に地下鉄に乗っていた。それまでは乗客はそれぞれ静かに座っていた。そこに親子が乗ってきた。子供は騒ぎ回っている。皆は苛立つ。著者も苛立ち、ついにもうすこし子供を静かにさせるようにその父親に言う。
 
するとその父親が謝りながら、今病院で母親が死に、どう考えていいか分からないところだという。それを聞いて著者はその子供の騒ぎに苛立たなくなった。」

動機を正しく理解することは他人を正しく理解することであり、コミュニケーションの第一歩である。人は神経症者になればなるほど人の行動や口先を見て、動機を見ない。