行動と動機1
第1節 人は何のために真面目にするのだろうか
2000年5月1日に愛知県の高校三年生が主婦を殺した。殺人の動機は「人を殺す経験をしたかった」である。真面目な性格で成績優秀であったと新聞は報じている。日本経済新聞などは見出しに大きく「模範的な生徒」と書いている。
当時の新聞には同級生の言葉が出ている。朝日新聞に出ているのを見ると「絶対にそんなことをする人じゃない」である。そして軟式テニス部で同級生だった少年は「よく休んだ僕よりもよっぽど真面目にやっていました」と言っている。
その直後3日に同じく17歳の少年が刃物を持って福岡県でバスジャックをした。そしてその同級生がテレビで言っていたことは、「世の中にいないくらい真面目な人」であった。とにかく二人とも「信じられないくらい真面目な人」なのである。
このように、この二人が、「模範的な生徒」として評価を受けていたという事は私達がいかに人を評価するときに行動だけを見て、その心の内を見ていないかという事である。
人は何のために真面目にするのだろうか。小さい頃、人は周囲の人の好意が欲しい。ことに淋しい人は好意を得るために社会的に望ましいとされていることをする。
社会的な大問題を起こす様な真面目な少年は、小さい頃周囲に良い子として受け入れてもらうためには、真面目であること、お行儀よく振舞うこと、周囲から無視されて面白くなくても騒がない等と言うことを学習したのである。
それが「不思議なくらい問題のない子」と言われる人達である。それらの「良い子」は周囲から拒絶されるを恐れて、内面の怒りを抑える。その結果自分の意志を伝える能力のない子になる。
愛されたい、好かれたい、認められたい、嫌われたくないということからそのマイナスの感情は表現されないまま心の中に蓄積され続ける。やがて怒ることに罪の意識を持つ様になる人もいる。
淋しいから好かれたい、愛されたい、褒められたい。そこで自分の実際の感情を裏切る。つまり自分で無理やり「良い子」になる。ヘビが無理矢理まっすぐに伸びているようなものである。そうした意味で親の顔色を見て真面目にする子は自己不在の子である。
大人についても同じである。会社で上司や同僚に評価され受け入れてもらうために無理をして働き過ぎるビジネスマンがいる。周囲の人の顔色を見て真面目に働くビジネスマンも自己不在である。
自己不在の人はいつも無理をする。しかし周囲の人にとってはこうした自己不在の人は都合良い。ことにずるい人にとって自己不在の人は都合良い。
自己不在の人の側に愛情飢餓感が余りにも強いと、つまりあまりにも淋しいと自分の感情を見失うまで他人の期待に応えようとする。このように淋しい子供は親の関心を引くために親の要求にかなう行動をするが、いつも自信がない。[はい、はい]と従順に答えながら一人になると落ち込む。ビジネスマンについても同じである。
そして自己不在の人は自分を裏切り続けるから相手に対して憎しみを持つ。極めて真面目であるが、憎しみがその人の心の底に堆積していく。そしてもこの憎しみは意識されることなく無意識へと追いやられることもあるし、意識されていることもある。
こうして周囲から好かれたいという気持ちと、周囲への憎しみという二つの矛盾する感情が心の中で激突し続ける。その矛盾する感情をもうどうにも処理が出来なくなった行きづまりは二つの方向で解決される。
一つの方向は攻撃性が自分に向けられる。怒りが外へ向かないで、内へ向くからどうしても元気がなくなる。それは憂鬱であり、欝病であり、神経症であり、自殺である。
真面目に働くと言うことによって攻撃性を間接的に満たしていく性格の人もいる。もちろん真面目に働いているけれども、そうした真面目な人は自信がない。
もう一つの方向は自分の外に攻撃性が向けられることである。その怒りが殺人や家庭内暴力や非行となって表現される。自殺に出るか殺人に出るかはその人の気質によるところが大きい。
ずるい人は、相手が穏やかだからとか、真面目だからとか、手が掛からないとかいうことでその人を都合良い人間として扱う。しかしそのつけが社会的な事件としてかえってくる。
あまりにも真面目な人で問題を起こす人というのは、心から喜ぶという体験を、もう長いことしてこなかった人達である。つまり自己不在で真面目な人は、自分で自分が分からなくなっている。彼らが表面立派であるにも拘らず挫折するのは、彼ら自身が気がついていない心の底の蓄積された憎しみのためである。
他人に自分をよく印象付けようとする動機から来る真面目さ、仕事熱心さ、こうした自分を売り込むための真面目さのほかに、もう一つは心の底の不安、怠惰、無感動を自分と他人に隠すための真面目さ、熱心さもある。それはいわば、憂鬱な真面目さ、憂鬱な熱心さである。そういう人は、孤独感から逃れたいためにマゾヒスティックなまで自分を駆り立てる。
ではなぜそれらの人々はそこまで他人に自分をよく印象づけようとするのか。一口で言えばそれは自信がないからである。自分に自信がないから批判されまいとして真面目になり、仕事熱心になる。
まず第一に、仕事熱心や真面目の真の動機は自分が愛されるに値しない人間であると言う感情を味わうことを避けるためであったりする。そうした不安の防衛としての真面目であり、仕事熱心である。
そうした自分を信じられない真面目少年や、真面目サラリーマンは真面目でなければ他人の気を引けないと思っている。自分を信じている人はまず他人の気を引く必要を感じていない。だから人から好意を得るために真面目になることはない。
そうした自信のない人は、世間の評価を気にする。そこで生真面目に仕事をすることが最も安全なのである。彼らは世間の目を気にして真面目に振る舞っている。世間から自分を守るために真面目になる。
第二に、自分が無能力な人間であると言う劣等感を味わいたくないので仕事熱心で真面目に振舞う。自分が無能力な人間であると言う感じ方を避けるために仕事熱心で真面目に振舞う。その仕事ぶりを見て自分で自分は無能力な人間ではないと思おうとする。
ここに逃避のメカニズムとしての真面目さや仕事熱心が生じてくる。淋しいから、自信がないから、人は真面目になり、仕事熱心になる。
自分の弱点を隠し、批判されまいと緊張している真面目なサラリーマンがいる。いつも肩に力が入って息苦しい。このような真面目さは周囲も息が詰まる。
彼らは仕事をすることを楽しめない。そして仕事の成果が上がらないとひどく苦しむ。仕事のプロセスを楽しめない。燃え尽きる人はこのような仕事熱心タイプである。
一七歳の「真面目な」少年達の攻撃性は外に出てしまった。しかし攻撃性が内に向かい鬱病になったり、ノイローゼになっている「真面目な」ビジネスマンや「真面目な」主婦も多い。
これらの真面目さと自分の人生の目的を達成するための真面目さとは違う。同じ真面目でも動機が違う。