ゆとりとは心のゆとりで、時間数のゆとりの問題ではない。

最近しきりにゆとりの教育と言うことが言われている。小学校からゆとりの教育が必要だと言う。しかし一体何がゆとりなのかが分からない。お金が沢山あってもゆとりなくあくせくしている人もいるし、お金がなくてもゆとりのある人もいる。
 
権力を持っても自己執着が強くて人の事など考えるゆとりのない人もいれば、権力などなくても人の幸せを考えて生きているゆとりのある人もいる。
 
もし子供にとって家が楽しいとする。そうした楽しい子供が学校に集まってくる。そうすれば給食も楽しいし、仲間と遊ぶのも楽しいし、授業も楽しい。
 
もし子供にとって家がつまらないとする。子供は家が面白くない。いつも不満である。そんな不満分子とでも言うべき子供が集まっているのが学校だとする。そこに授業がある。テストもある。
 
そうすれば子供の不満は爆発する。授業も少ない方が良いし、テストも少ない方が良いに決まっている。学校は授業以外の所で、子供の不満を吐き出す時間を作らなければならない。
 
そうなればゆとりの教育とは授業の少ない教育になる。しかし実を言えば、ゆとりとは心のゆとりで、時間数のゆとりの問題ではない。そこを間違えるといくらゆとりの教育を叫んでも何も解決しない。
 
昔、私達が小学校の頃、押しくらまんじゅうと言う遊びがあった。寒い時によくしたものである。皆が集まって「押しくらまんじゅう、押されて泣くな、」と言いながら、押し合っていることで暖かくなった。
 
もし「押しくらまんじゅう」をして遊んでいる子供のところに行って「皆さん、ゆとりが大切です、窮屈そうですから、」と言って人を少なくしてスカスカにしたらどうなるか。押しくらまんじゅうと言う面白い遊びにはならない。狭い場所で押し合っているから面白いのである。
 
学校で科目が多すぎると言うが、多すぎるところに面白さがあるとは今の「偉い先生方」は考えない様である。それぞれの子供の家庭がホッカ・ホッカに暖かければ、学校に集まっても楽しい。集まって遊んでも楽しいし、授業が沢山あってもいい。そしてそうなればクラスが沢山あることが楽しいはずである。
 
心の教育、心の教育と言いながら、ゆとりの教育がすぐに科目数を減らすことと考えるのは、心の教育とはそもそも何かが、全く分かっていないのではないか。