母親が体験の重要性を理解していないのだから。

大学で教えていて今の大学生が生きる意味を見失っているとつくづくと感じる。成績がいいのだが、生きている気迫がない。教えていても反応があまりない。質問をすれば下を向いて黙っている。喜びや悲しみの表情が余りない。そもそも大学生のうちから生きている驚きや、感動がない様である。ただ毎日何となく生きている。
 
日本の小学生や中学生は世界的に見て数学の成績はいいらしいが、なんのための数学の勉強かも理解していないのではないだろうか。だから大学に来ても、ただだらだらと数学を単位のために勉強をしている。
 
ところで早稲田大学の生涯学習の機関の責任者をしていた時に、受講生をオレゴンに連れていったことがある。
 
それに参加した人達は三十代から四十代の母親が多かった。そこで農家に行って実際にジャムを作った。母親たちは感動した様である。苺ジャムが苺から出来ていることは知識として誰でもが知っている。しかし自分で作るという体験からしか感動は生まれてこない。スーパー・マーケットで苺を買っても驚きはない。どんなに苺ジャムを見ても驚きはない。この驚きの体験こそ「自分はなんのために生きているのか」を教えてくれるものなのである。生きている意味は体験からしか生まれてこない。哲学の本を読んで生きている意味を感じるわけではない。
 
母親が体験の重要性を理解していないのだから、子供に何かを体験させようとはしない。体験は子供を育てる時には特にの重要である。子供はお豆腐は大豆から出来ていることは知っている。しかしそれはあくまでも知識である。そこに驚きはない。子供達が実際に自分でお豆腐を作ることで、はじめて驚きがある。大豆をゆでる、つぶすという中でお豆腐が出来てくることに驚く。
 
知識としてお豆腐は大豆から出来ていると知っている者は、おそらく大豆がなければお豆腐は出来ないと思いこんでいるだろう。しかし大豆から自分でお豆腐を作った子供は、大豆がない時に、もしかしたらとうもろこしでだってお豆腐は出来るのではないかと思うのではなかろうか。そこから創造性も生まれてくるのである。
 
驚きに裏打ちされた知識と、単なる知識とでは、生きていく上で本人にとってまるで意味が違う。