子供は体調を崩して食欲がない。

子供は体調を崩して食欲がない。しかし子供も何かを食べた方がいいとは知っている。そんな状態の時である。
 
ある母親は「何食べる?」と聞く。食欲のない子供は、何を食べたいかすぐには言えない。そこで「別に、、」と言う。「何食べる?」と聞かれたことで子供はイライラする。母親も何を作っていいか分からない。そこで「でも、何か言ってよ」と言う。すると子供はぶすっとして「オムレツ」と言う。
 
やがて出されてきたオムレツを見て子供は胸がむかむかする。健康なときに食べたオムレツをイメージしていたが、それが体の調子悪いときには美味しそうではないからである。そこで胸がむかむかして食べる気にはならない。母親はそれを見て「せっかく作ったのに」と思う。親も子供もなにかイライラする。
 
それでは愛情のある親子の場合を考えてみよう。子供の体の調子の悪いのを見て取った母親は子供に「何食べる?」としつこく聞かない。小さいお茶碗にお粥を持ってくる。そばには小さい梅干しがある。そこで子供は食べられる。すると「良かったねー、全部食べたの、すぐによくなるわよ」と母親は言う。一時間後にまた果物なり、アイスクリームなりジュースを持ってくる。次は白いご飯。葱とショウガで汁が出来ている。
 
この母親は日頃から子供の好きな食べ物を知っている。そしてそれを体の調子の悪い子供が食べられるようにして出してくる。だから「何を食べる?」としつこく聞かない。
 
自己執着の強い親は子供を見ていない。だから子供のもとめているものを理解できていない。愛情のある親は子供を見ている。だから子供がジュースを美味しそうに飲むと、この子は「このジュース」が好きなのだろと分かる。そのジュースを飲んだ子供の様子を見ている。日頃子供を観察しているから体調を崩したときには親はその子供の好きなジュースを黙って出してあげられる。「愛している」とは「分かっている」ということでもある。
 
子供が心理的に成長するのには、後者の例のような愛情が必要なのである。子供を心理的に成長させる愛情とは、子供が求めていることを理解できる能力と言うことである。もともと愛情とは相手のもとめているものを理解できる能力である。
 
自己執着の強い人は相手が何を求めているかを理解できない。つまり自己執着の強い親は子供が何を求めているかを理解できない。だからどんなに子育てに努力しても子供は心理的成長に失敗するのである。