「母なるもの」を持たない母親は、言葉のなかに含まれている五感を子供に教えていない(1)

お風呂に入れながら「気持ちいいね、、」と話かけている母親と、黙って入れている母親とでは、子供の心の成長は違ってくる。笑顔でお風呂に入れている母親に「気持ちいいね、、」と話かけられて、子供は「気持ちいい」と言う感覚を身につけて行く。
 
それは「おいしい」も同じである。ふだん使っている言葉の意味を五感と共に教えるのが心の教育である。
 
食事の時に母親が餌を当てるように食事を与えて、その上で「早く食べなさい!」と言われる子供もいる。この子に「食事を美味しく食べる」意欲を持たせることは難しい。
 
それにたいしてカレーを食べているときに「カレー、美味しい?」と母親と話しをしながら食べる子供もいる。そこでその子は「このカレーは美味しい」と判断するようになる。
 
「母なるもの」を持たない母親は、言葉のなかに含まれている五感を子供に教えていない。食べることと一緒になった「楽しい」と言う感覚を教えていない。子供はそれらの中で生きる楽しさを身体で覚える。
 
例えば熱い食べものを母親は「フー、フーしながら食べようね、熱いからね」と教えてくれる。そう言う母親の保護があって、つまりそのようにしてお風呂に入れて、そのようにして食事が出来て、子供は満たされてはじめて生きることに前向きになれる。
 
しかしそう言う母親が居ない時に子供は熱い飲み物をガバッと飲んでしまったとする。その時子供は世界をどう感じるだろうか。何となく危険に満ちていると感じないだろうか。
 
お母さんの味が分からない、味オンチな人が、色々な問題をおこすと言う。砂糖と犯罪とが関係していると言う調査もあるが、砂糖ばかりを食べると言うことは、母親が手抜きして子供を育てていると言うことである。

子供が魚が嫌いだという。「そんなこと言っていると、体操の選手になれないわよ」と母親がいう。「でも、嫌い、体操の選手になれなくても言い」と子供は言う。このような日常会話はおそらくどこでも行われているのだろう。
 
そこで何とか魚を食べさせようと料理に工夫する親と、工夫しない親がいる。食べやすいように料理を工夫する親の愛情で子供の心は育つ。
 
心の教育とは、気持ちいいなーと言う感じを体験すること。爽やかな緑を見て、朝の風にあたって「気持ちいいなー」と感じる。その爽快さの体感が心の教育である。
 
そういう「気持ちいいなー」と言う体感の積み重ねで、感動する心が育つ。感動できる人間になっていく。爽快な心地よさの体験の積み重ねで心が育つ。
 
あるいは好きな花を見つけるのでもいい。これも同じである。いつも悩んでいる人は大好きな花などない。だから好きな花を見つけるのでいい。そしてその好きな花の匂いを一人楽しむことでもいい。