[新聞コメント補足] 休みベタ (2023.2.19 讀賣新聞)

掲載:2023年2月19日(日) 讀賣新聞 連載「広角多角」(9面コラム)
記事タイトル:「生活に余白は大切 ちゃんと休もう」

 我々は戦争の国に生まれたのではない。生き方を間違えるとこうなる。それを示しているのが「休むのが下手でしんどい」「罪悪感を抱かずに休みたい」という今の孤独の手紙の人たち。

何処を間違えたのか。

戦後の快適な生活は人の心理に何をもたらしたか?
所得増加、経済繁栄。生活は便利になった、民主主義的制度は実現している。自由でも幸せではない。価値観は自由になった、でも幸せになっていない。
 神経症予防のためにあらゆる困難を取り払っても意味がない。「註、フランクル。フランクル三巻69頁。」
 なんのための豊かさかとリースマンは言う。

宝くじより親友が幸せにしてくれる。親友を持てる心理状態が大切。
 孤独、と人類の流れとしての機能集団の恐ろしさ。孤立ということにパーソナリティーが表現される。
 心のトラブルは人間関係の中に表現される。

 悲観的な人はさらに頑固になり、考えを変えることがむずかしくなる。二、三人の似たもの同士だけで固まって他を寄せつけないので、いつまでも悲観的な考えが変わらない。
無意識の領域で敵意を持ちながら、心のふれあいとしてのコミュニケーションはできない。
 コミュニケーション能力を破壊し、それが身体の健康を害する結果になる。

 「二十五年にわたる追跡調査期間に、敵意で高得点を挙げた医師の冠動脈疾患の罹患率は、得点の低かった医師の四ないし五倍にも上った。
 法律家についてさらに研究を進めた結果、敵意のもつどのような側面が将来の高い死亡率に結びつくのかが明らかになった。
 それは人間一般に対して不信感を持っていること、頻繁に怒りを感じること、あからさまに攻撃的な態度を取ることの三つの側面である。
「孤独を感じる」はOECD加盟25カ国日本の子どもが29.8%で最も多く。イギリス(5.4%)。

交通事故死亡率(人口あたり)、ロシアは日本の3倍、アメリカや韓国は2倍、フランスやイタリアは1.5倍、日本の交通事故死亡率は主要国と比較して低い水準。
一方、自殺率、日本はアメリカの2倍

 孤独から友人と思っている、深刻な劣等感を癒すお世辞を言ってくれる人がいい人と思っている。

 自我の発達や、パーソナリティーの発達が理解できるのは、社会的連鎖を通して、他人と相互作用を行うときだけである。

 グレイサー博士の研究の結果、もっとも孤独な学生のNK細胞の活動がもっとも低かった。

 最近の調査。いくつものグループの研究調査の結果、心理的に孤独な人は、免疫性が弱い。

 個性化の過程は孤独と不安をもたらす。依存症の増大。

 ある人は個性を投げ捨てて、孤独と無力感を克服しようと言う衝動が生まれる。「孤独と追放」というのは怖いから、それが服従となって現れる。

孤独にさいなまれながらも友達がいるふりをするピーター・パン人間は現実否認である。
ピーター・パン人間は自分について耐えがたい感情を認めない。

 孤独感は正しい感情の認識を妨害する。

 実際の自分の感情を隠そうとすることで、自分との断絶が始まる。すると空しさ、孤独感が強まる。

 ピーター・パン人間の様に「不安の消極的回避」をしないこと。
 ピーター・パン人間は、孤独から目を背けるために集まって騒ぐ。
 その孤独と向き合って、苦しみの時期を経た人は心理的に成長する。

孤独から目を背けるために騒ぎ続けた人は40代、五〇代になって憂鬱になる。

そして彼は40歳を過ぎて孤独である。しかし彼は孤独でいるべく運命ずけられていたわけではない。彼の自己蔑視が彼の孤独の原因である。彼がもし、前向きの光のなかで自分を眺める人であったら、彼の人生は大きく変わっていたであろう。

 自己疎外された人は孤独で、淋しさが優越するから、日常生活では不愉快な感情はかき消される。
 孤独が不幸の直接的な原因というのではなく、孤独が悪い人間関係の原因だから、孤独は間接的に不幸の原因なのである。

 そしてポストに執着する人は最終的には周囲の人の信頼を失っていく。老後は孤独である。

 無味乾燥なことも孤独の恐怖があるからこそ耐えられた。その無味乾燥なことをするのも、それをしなければ独りぼっちになると思えばこそ頑張ってしてきた。

人類普遍の課題は?
 第一次的な絆を喪失、誰でも不安と孤独に直面する。

「人間のもっとも深い欲求は、その分離を克服し、孤独という牢獄からのがれるという欲求」「註、フロム」。
孤独に気がついていない。地獄に居る事に気がついていない。

 あとは、例えば孤独感。おそらく親切をする相手を喜ばす中で、人は寂しければ、我々は「孤独と追放」というのは怖いから、寂しいとき、人の好意がほしくて迎合する。

 人間は他者との係わりの中で初めて自我感情を体験することが出来る。

 自分を持っている人は、悪い人間関係を持つくらいなら孤独を選ぶ。心理的に自立している人は、孤独を怖れない。結果として幸せな人になれる。

 孤独に苦しむ。孤独に直面すれば、苦しみが救済と解放になる。
 孤独から目を背けて、頑張っても自分の弱点から解放されない。成功しても失敗しても、劣等感の苦しみは深刻化す。
 人は「怒りと孤独の処理」で人生を間違える。
 自分の心の中の怒りや憎しみと孤独を認めない。認めないが、その人は怒りや孤独に動かされている。

 孤独な人は商業主義の餌食になるとダン・カイリーは言う。
 流行を追いかける心理がそもそも孤独感からであろう。人と同じにしていないと不安なのである。

 劣等感と孤独感は関係しているが、劣等感の強い人ほどおだてに弱い。周囲の人から利用されたのは本人の弱さ故なのだが、その自らの弱さに対する反省はない。
 弱さとは淋しさである。孤独感である。孤独な人はずるい人に利用される。
 劣等感の強い人ほどお世辞が嬉しい

 本当の孤独は孤独を意識していないことである。

 ナルシストが傷つきやすいということは、自分を信じていないということでもある。ナルシストは自己陶酔しているが、心の底では自分を信じていない。何よりもナルシストは自己不在である。つまり空虚感と孤独感に苦しめられている。
 ナルシシズムを克服して、自分を信じて生き始めることがないかぎり人は永遠に孤独で傷つきやすい。
 自分を信じることが出来たときに始めて人は悪口をいわれることで傷つかなくなり、悪口をいわれることが怖くなくなる。人から低く評価されることが恐くなくなる。失敗が恐くなくなる。そして人を愛することが出来る様になる。
 自分を信じられれば嫌われることで深く傷つくことがなくなる。批判されることで深く傷つかなくなる。だから悪口が恐くなくなる。そして自己実現に向かってエネルギーを使うことができる様になる。
 自己陶酔しているだけで、自分を信じられないうちは嫌われること、馬鹿にされることで致命的に傷ついてしまう。そして何よりも人を愛することは出来ない。
 格好をつけている若者を想像してもらえればこれは理解をしてもらえるだろう。彼等は水に映った自分を見て、一緒に「カッコイイー」といってくれる人を求めているのである。水に映った自分を人から批判されたら、それはまさに生命の危機である。自分の格好に陶酔している様であるが、壊れ物の様に傷つきやすい。それは恰好をつけている自分を信じられないからである。

 人間は他者との係わりの中で初めて自我感情を体験することが出来る。
孤独を恐れる。
孤独感の一つの理由。現代社会は自分が社会的に受け入れられることを余りにも強調し過ぎる。自分はいつも他人に求められているということを証明しようとする。社会的に成功しているなら孤独に苦しむことはない。「うんと気に入られることだ。そうすれば、おまえたちは何も心配することはない。」セールスマンの死。「註、ロロ・メイ「失われし自我を求めて」「誠信書房」20。」

 孤独な人ほど偽りの愛に弱い。自分に心地良い話しをしてくれる人を良い人と思う。
 子供を誘拐する犯人は、「私は誘拐犯だよ」と言って子供に近付くのでない。子供が欲しいものを持ってあらわれる。
 孤独なあなたを狙った人は、あなたの欲しいものをぶら下げてあらわれることをしっかりと心にとめておいてもらいたい。
 その餌に飛びついた時に、あなたは釣られたのである。そして生涯奴隷の様に働かされるかも知れない。

胃薬はあるが、心を成長させる薬はない。」

 一般的に楽天的な人の方がいろいろな病気に罹りにくいし、癌や手術からの回復も早い。

 最近の調査。いくつものグループの研究調査の結果、心理的に孤独な人は、免疫性が弱い。

 自己の内発的感情から人とつながっていかない。人との関係の中で自我の確認が出来ない人。
 いわゆる「心がふれていない」人。
 自己栄光化にしか自我の確認がない人。
 周りの人とコミュニケーション出来ない人。
そういう人は問題解決能力なし。

 自己実現している人には親しい人がいる。
 心が触れている人との出来事はなぜか覚えている。一緒に仕事をしても、忘れている人と覚えている人がいる。
 学校を卒業しても、なんとなく覚えている人と、忘れている人と、会いたくない人がいる。
 なんとなく覚えている人とは、当時心が触れ合っていたのである。
 憎しみの感情は覚えているうちに入らない。
 内発的感情ではないから。
 顔も見たくない。
 いじめられた体験。
 記憶に凍結された恐怖感。
 これらは外からの刺激に反応した感情である。
 
 触れ合う感情は、内発的な感情である。

 自己実現して生きてこないで、孤独を楽しむと言っても無理。人生に魔法の杖はない。

自己中心的な人は感情的に貧困である。

 自己中心性と共生の関係、他人の気持ちに影響され易い。相手に機嫌よくしていてもらいたい。
 共生とは、他者の自己化が完成していない状態である。
 自分が好きになった人は他人を好きになる。

自分のための子供、自分のための他人しかいない人間は他者とのあいだに関係をもつことはありえない。

 神経症者は自分自身のエネルギーを持っていないとカレンホルナイは言う。
 Neurotic does not have his own energies.
 人が自分に期待することをするときにしかエネルギーはない。あるいは人が自分の神経症的自尊心を脅かす時にしかエネルギーがない。恐怖感、不安感からしか動いていない。
燃え尽きる人はエネルギーがあるようで実はエネルギーはない。人から良く思われることしか考えていない。愛を求めている。

 仕事以外の願望は表面に現われない。自分以外のことは考えられないと言うことである。「罪悪感を抱かずに休みたい」と言う様な人である。
 仕事に対する欲求と表裏一体をなしているのが「仕事がはたしてうまくいくかどうか」という激しい不安感。
憔悴感が表面化する。失敗を恐れる。
解決するには。
生活を丁寧にする。食事を楽しむ。味覚を育成する。仕事一点張りの規範意識を反省する。執着性格者は五感がない。五感を育成する。色を楽しむ。

明日からは、実際にはが本当に好きな人を喜ばそうとすること。
 今までは不安の防衛としての仕事熱心である。不安や孤独感から人を喜ばそうとしていた。

 仕事以外のことを熱心にする。自分のしようとすることを書いてみる。
自分が無力な人間であると言う感じ方を避けるために仕事熱心で真面目に振舞う。それらは悪循環する。

心理的観点からすると望ましいことをする。書いてみる。
 社会的観点からすると望ましいことが、心理的には停滞を生むことがある。今日話した人たちは、社会的観点からすると望ましいとされることのなかで身動きできなくなっている。
 外から見たり聞いたりできるのは、肯定的な性質やそれを認める周囲からの声だけである。それは「社会規範への過度の適応」であり、「規範過剰性」「クラウス、」である。

コバサは、ビジネス・エグゼクティヴの集団を対象に、会社経営に伴う通常の危機や混乱に直面したとき彼らがどう対処するかを調べた。そして、混乱を乗りきる間、最も健康であった人に一定の特徴的なパーソナリティが見られることに気づいた。

 そのひとつは、何か困難にぶつかってもそれを脅威ではなくやりがいのある仕事とみなし、変化には気持ちの高揚とエネルギーを持って応えるという点である。

自分は何に意味があると感じているか?
 もうひとつは、仕事、地域、家族など、本人が意味があると感じているものと深い係わりを持っているという点である。

肩肘張らずに、自分らしく生きていくためにはどうすればいいのか

自己イメージを変えてあげる方法。

 世界で最も恥ずかしがり屋の子供は?
 誰でもすごいことをしている。それを認めてあげる。
 無反応は意欲を失わせる。
 仕事がうまくいっている人は感謝の気持ちをいつも伝えている。
大切なのは、結果よりそこへ至る道。
業績を上げた人は人知れず努力していることを知らせる。

 今までは、非現実的なほど高い目標を達成することにエネルギ-を使おうとして、自分の出来ることにエネルギ-を使おうとしない。

 幼い日、母親を始め周囲の重要な人との関係で身につけた他者の好意を獲得する方法を自分の中で習慣化して、かたくなにそれを守っているのである。
 母親を始め周囲の重要な人が支配的な人であったら、指示を待って指示どおり動くことで、その人は周囲の人の好意を獲得出来る。

 新しい自我の形成は孤独な戦いを要求する
 古い自我の解体と新しい自我の形成は、人間の最も大きな創造的行為なのである。
 誰でも安らぎを求めるが、過度に安らぎを求める者は、創造的行為をあきらめ、意味を放棄する。

 強迫的に比較している人は自分の劣等感と憎しみに気がついていない。
 すべてにおいてすべての人に優越したいという気持「基本的不安」が強い。
 愛されていないから、優越したい。愛されたいということの代償である。つまり比較する人は愛されていない。
 対象無差別に愛されたい。その結果対象無差別に比較する。
優越が、包括的神経症的解決「a comprehensive neurotic solution」である。
 「私たちという感情」の代わりに、優越を求めるのが基本的不安感。
 基本的不安感は、自分の自発的な感情から他人とつながることを妨げる。
 基本的不安感は自分の中の問題ばかりではなく、他人にどう接するかということに影響してくる。
 心理的健康な人は、健康な関係を築けるが、心理的に不健康な人は、不健康な人間関係しか築けない。

 孤独を嘆いている人は、何よりも対象に対する興味と関心がない。自分のしていることに興味がない。他人が不当な重要性を持つ。

劣等感をもつと幸福についての画一主義に陥。有名大学を卒業してエリート社員、結婚して子ども三人が幸福な人と錯覚する。
 本当に幸せな人とは比較しない。本当に幸せな人を羨ましく思わない。

 基本的不安があるから。排他的に養育者を所有したことがない。
 自己蔑視している人が不幸なのは、現実の苦しみがあるからではなく、心の苦しみから。それが理解出来ていない。

 孤独を騒ぐ人は自己実現していない人。

 私は悩んでいる人と半世紀以上接してきて分かったことがある。それは、悩みを解消するためには何かを実際に自分からすることがいかに大切であるかということです。本当に小さな事を一つだけでもいいから実際にしてみることが悩んでいる人には大切なのです。
 「こんな馬鹿な」ということでいいから実際にしてみることです。じつは「こんな馬鹿な」ということをすることが元気になるにはかかせないことなのです。つまり「こんな小さなこと」ということを実際にすることが悩んでいる人を変えていく。
 悩んでいる人からよく手紙をもらう。そして「親が酷い、助けてくれ」と書いてある。しかし具体的なことが何も書いてない。
 例えば親は酒飲みで困っているとか、サラ金に追われているとか言う具体的なことは何も書いて居ない。ただただ「助けてくれ」と延々と書いてくる。
 そして綿々と「辛い、辛い」と訴えている。その気持は分かるが、具体的には何を言っているのか分からない。
 「会社の人とあわない」と言うが、どうあわないかが具体的には何も書いて居ない。
 要するに悩みの原因は、本人が思っている外側の世界にはなく、本人の心のあり方にあると思われる。
 そして最後には「先生、私はいまどうしたら一番いいのですか。」と聞いている。
 とにかく悩んでいる人はこの現実の中で生き始めることが大切なのです。
 手紙は延々と自分がいかに苦しいかを訴える。しかし「では『どうするか』」がどの手紙にもない。
 悩んでいる人は「現実と向き合っていない」。現実と向き合うことがあまりにも辛いのであろう。そこでとにかく「辛い、辛い」と訴えるばかりで実際には悩みの解決のためには何もしない。
 端から見ると「具体的に行動をおこさない」ように見えるが、本人にすれば「具体的に行動をおこせない」のです。

 イソップ物語に犬と骨の話が出ている。犬が骨をくわえている。水に映った自分の口の骨を見てほしいと思う。そこで「ワン」と吠える。その瞬間くわえていた骨が水に落ちてしまう。

 「孤独を感じていると、悩んでいる人」がしているのは、この欲張りな犬と同じことである。今手元にあるものを活用しようとしないで、他の人が持っているものを羨ましがる。
「孤独を感じていると、悩んでいる人」には現在あるものを活用しようという姿勢がない。
 悩んでいる人には今自分が持っているものを活用して生きる姿勢がない。
 「孤独を感じていると、悩んでいる人」は今の自分を大切にしない。

 だからもしあなたが孤独を感じていると悩んでいるなら、今自分が持っているものをリストアップしてみなさい。あまりに沢山持っているので驚くでしょう。

 今手元にあるものを活用して生きる、これが孤独に悩んでいる人が「前向きに」元気に生きるコツです。
することがなくて毎日ブラブラしている。
 すると、毎日が充実していないと、嘆く。

 でも、毎日ブラブラしていることは、考えてみれば幸せなことです。生きる糧を得るのに悩んでいる暇がない人が多いのだから。
 悩んでいる人は元気でブラブラしていられる幸せを忘れている。
 自分は毎日ブラブラしているけれども、病気じゃないと思えば幸せを感じるはず。
 生きて、食べているのだから、「何と幸せなことか」と思えば思える。

 神経症的な人が、充実とか、幸せとかの基準にしていることはあまりにもすごいこと過ぎる。

 でも充実しているとは、
 生きている、 
 鼻がつまっていないで、空気をすっている、
 口内炎ではなく、食べられる。

 どこか一つうまくいけばそれを幸せと、ほかの人は思っている。

 そういう気持ちでいるから、この自分を愛してくれる人にも出会える。
 そういう気持ちだから、人から愛される。
 愛される人は、そういう気持ちで生活している。
 だからすごい基準の充実した日もいつか来る。

 歯が直って幸せ。
 そう思っている人に、
 人はほのぼのとしたものを感じる。

 イソップ物語に「ラクダとゼウス」と言う次のような話がある。牛が自分の角を自慢していたので、それを見たラクダが、うらやましく思って、自分にも、ああいうものが欲しいと考えた。
 そこでラクダは、ゼウスのところへいって、角をくださいと頼む。ゼウスはラクダが体も大きく力もあるのに満足しないで、余計なものまで欲しがるのに腹をたてて、角をやらなかったばかりか、耳までもいでしまったという話である。

 大きなことをしようとしない。大きなことをしようとするのは、それだけ心が傷ついているから。
大きなことをしようとするのは恥ずかしいこと。

 人生を考える「視点を変える」。
馬鹿らしいと思うことでも、ためしにやってみる。
レジリエンスのある人は祈り「=瞑想」をしている。レジリエンスとは回復力のこと。

 「National Institute on Aging」と言う機関が十年間にわたって調査をした。すると1973年に幸せであった人は十年経った1983年にもまだ幸せであったという。
ある特性を持った人は困難に出会っても、なお幸せを更新していく。困難の中で新たな幸せを見つけていく。
 楽天的という特性を持った人は、なにか悪いことが起きたときに「それは私の過ち、この悪いことは続いていく、」と言う様な考え方をしない。

事実は変わっても、その人の解釈は変わらないと言うこと。
事実は、十年経ったら会社が倒産していた、小さな会社が大きくなった、店を始めたら、成功した、失敗した、素晴らしい奥さんと親孝行の子供が居た、親が、配偶者がなくなった、孫が生まれた人、火事にあった人、卒業するときに花形の就職をした人、年をとって失業した人。
 事実は変わっているはず。
事実は変えられないが、事実に対する解釈は変えられる。

 事実が直接人に影響を与えるのではなく、その事実をどう受け止めるかと言うことは人によって違う。事実に対する受け止めが人に影響を与える。
 その事実にどういう態度をとるかで、事実の影響は決まる。