「自分がある」人は、自分がどうすれば最もよいのかが理解できている。要するに「自分がある」人は、「自分は何をしたいかがわかる」人である。小さい頃から他人が自分に何を期待するかということで自分の行動を決めてきた人は、「自分がない」。自分にも、自分がほうとうは何を望んでいるかわからなくなっている。小さい頃、自分が望んでいることを実行することが怖かった。自分が望んでいることを表現すれば、大切な人の心を失う危険性があった。その恐怖のためにじぶんは何をしたら嬉しいか、何をしたくないかよりも、何をしたら喜ばれるか、何をしたら失望されるかのほうが重要になってしまった。それ以後も、他人の自分に対する期待と失望を基準に、自分の人生を決めてきた。その人がそのように生きる過程でどんなに名誉を得ても、その人がそのように生きる中でどんな権力を得ても、その人には「自分」がない。つまりその人は、どんなに大きな名声を博し、巨大な権力を得、巨万の富を獲得しても、自信を持つことはできない。恐れるものは自信を得ることはできない。恐れるものは自己喪失する。あるいは自己を獲得することができない。小さい頃、人の心を失うことを恐れて生きたか、それとも安心して生きたかは、後の人生にものすごい影響を残す。
自分の感情を大切にする人は、自然に相手の感情も大切にできる。自然に相手の感情も受け入れることができる。自分の感情を受け入れているから、相手の感情も受け入れることができる。自分の感情も相手の感情も受け入れることができるから、相手の感情に自分の価値がかかっているとは感じないのである。表現としては矛盾するようであるが、相手を大切に思えば思うほど、相手の感情に自分の価値は左右されなくなる。したがって自己主張をする人は、相手からことわられたからといいて相手を憎むということもない。断るということと相手を否定することとはまったく違う。断られても自分が否定されたとは感じない。つまり、それほど相手からの拒絶を恐れない。ジンバルドーは、はずかしがりやの人は自己主張をしない、そして拒絶されることを恐れると述べているが、まさにその通りであろう。この二つは関連があるのである。自己不在な人、あるいは自己主張できない人は、断られると時に相手を憎む。相手を憎まないときには落胆する。攻撃性を相手に向けて相手を憎むか、攻撃性を自分に向けて落ちこむかなのである。拒絶を恐れて相手に何か提案できない人がいる。断られることを恐れて好きな人にプロポーズできない人がいる。断られることを恐れて相手に好きと言えない人がいる。断られることを恐れるから何かを申し出られないのであるが、申し出てしまえば恐怖が消える。
「自分はいかさま師などと、他人には知られたくないものです」と言うが、実は他人の好意がそこまで大切だから、自分をいかさま師と感じてしまうのではないだろうか。他人の好意があまりにも大切だから、自分はいまのその評判に値しないいかさま師と感じてしまうのではなかろうか。ストレスは、自分がいかさま師であることがばれるのではないかという不安から生じるものである。自分が有能なふりをしているから、有能でないことがばれるのではないかと不安になり、強いストレスに悩むことになる。したがって、この心理に陥った人はいつもストレスがある。それは、いつもばれる可能性があるからである。何か一つでも失敗すると、それで自分のインチキがばれると思いこんでしまうのがこの心理に陥った人である。しかしいつでも失敗の可能性はあるわけだから、いつでもストレスを感じていることになる。ただ、本人がそれを自覚しているかどうかは別である。ストレスが無意識にあるということだってある。本人はなんで自分はこんなに疲れるのだろうと不思議に思う。人より多く眠っても疲れはとれない。いつも疲れている。何もしなくても疲れる。人はストレスで疲れる。だからいつもストレスを感じている人は、いつも疲れている。