加藤諦三の言葉 第96回 [2002/11/21]

自分が感じるように相手も感じるとは限らない
終わる愛・終わらない愛 (P.84)
(PHP研究所)

 恋愛において何をしようとしているのか、それは明らかに人によって異なるであろう。恋愛において自らの孤独をなぐさめようとしている人がいるかもしれないし、恋愛において母なるものを求めようしている人もいるにちがいない。あるいは、僕の頭ではとうてい考えることのできないことを恋愛において果たそうとしている人がいるかもしれない。なぜ恋をするのか、なぜ好きな人と一緒に住むのか、それは人によって異なるにちがいない。同じように、嫌いだから一緒に住まない人もいれば、好きだからこそ一緒に住まない人もいて当然である。究極のところ、人間が望んでいるものを、人は恋愛において、仕事において、友情において達成しようとするのではなかろうか。小さな赤ん坊は自分の妹や弟ができると親の愛情がそちらにも注がれて大変なショックを受ける。これは許すべからざることにちがいない。そして、そのままの感情をもって二十歳にまでなる人間もいれば、三十歳にまでなる人間もいる。しかし、弟や妹ができると同時に、その試練を乗り越えてしまうものもいる。



人を愛することは自分を磨くこと
終わる愛・終わらない愛 (P.138)
(PHP研究所)

 人を愛するということは、何よりも自分を磨くということである。女にとっては、好きな人のために料理を作り、好きな人の洋服の破れをつくろうことはうれしいことであって、何らの努力も必要としないし、何の厳しさもない。それが本当に愛することであるというなら、愛するなどということはまったく安易な、誰にでもできる、食欲や性欲と変わりのないものでしかないだろう。もちろん、食事を作り、洗たくをし、ということが愛することでないというのではない。しかし、真に人を愛するということは、何よりも自分自身を日々向上させるということではなかろうか。向上させるとは、なにも小学校以来の勉強をしろということではない。いままでできなかった運転免許を取ることもそうであろうし、あまり知らなかったロシア文学を学ぶことも、英会話ができるようになることも、ヨットをやることも、サッカーをやることもそうであろう。ただベタベタ、ベタベタとくっついて寄り添っているというのは、愛しているのではなく、愛していない証拠でしかない。



なぜ生き方を型にはめこもうとしてしまうのか
終わる愛・終わらない愛 (P.170)
(PHP研究所)

 日本人は弱い。他人の目を気にする。世間体が気になる。だからこそ、自分が本当に生きたいように生きられないのではないが。本当のところは“本当の生き方”をしたいのである。もし世間の目というものがなければ、本当はもっと自由に生きたいのではないか。もっと本当の愛に生きたいのではないか。しかし、世間の目があるから、親がうるさいから、したくもない結婚をする人もでてくるだろうし、もう別れたほうがいいと思いながらも、一緒にいるのではないか。誰だって自分の生きたいように生きたいのである。それをさせないのが世間の目なのだ。それゆえにこそ、日本人は自らのうちに猛烈な欲求不満をもってしまい、あの他人へのいやらしい関心をいだくのではないか。世間の目に逆らって本当に生きたいように生きている人間は、もっと素直だろうし、そんなものに関心をもちはしない。本当に好きな人と愛し合っている恋人は、けっして他人のうわさ話に時を費やしはしない。なぜなら、他人のうわさ話に興味をもつのは精神の不健康の証拠でしかないからだ。僕は、学問をやった人間は、他人が本当に生きたいように生きることに精神的援助をすべきだと思っている。それでこそ、学問が生きるのではないか。


BACK← →NEXT
「加藤諦三の言葉」目次へ戻る
トップページへ戻る

このページに掲載されている記事などの無断転用を禁じます。

Copyright (C) 2000-2006
加藤諦三、加藤諦三研究室