加藤諦三の言葉 第95回 [2002/11/12]

愛されることばかりを求める人はいつまでも不安のかたまり
終わる愛・終わらない愛 (P.47)
(PHP研究所)

 人間は自分以外の人間を救えない。親が子供を愛する時も同じである。曽野綾子さんと対談した時、彼女は外国の神父の話をしてくれた。詳しい話は省くが、その神父は、ある人を救うために死んだのだという。しかし、そこまでしながらその神父は、一軒の家の幸福さえももたらすことができなかった、という話である。その人のために死んだとしても、その命によって救われるのはその人ではなくて、その命自身なのである。人間は自らの命をその人のために捨てても、なおかつその人を救えない。この人間の無力さをわれわれはしらなければならない。たとえその人をどんなに愛したとしても、自分の愛によってその人が幸せになどなるわけがない。その人を愛し、そしてその人が幸せになったとしたら、やはりその人は、その人自身の力によって幸せになったのである。他人によって自分を救おうというあやまちを、人間は愛においてしばしば行う。それが、巷にあふれている恋の終わりなのではなかろうか。あるいは結婚の悲劇なのではなかろうか。相手の愛によって自らを救おうとするかぎり、人間は相手が約束の時間に一分遅れても不服である。



愛されたいのに求め方がわからない人へ
終わる愛・終わらない愛 (P.53-P.54)
(PHP研究所)

 杉田峯康氏は『こじれる人間関係』(創元社)の中で次のように書いている。「この構えをとる人は、他人が与えようとする愛情や注目を拒否し、自分のカラの中に閉じこもって、他人と交流するのをやめてしまいます」それは人生の初期に親子の間で形成されるはずの基本的信頼感ができていないためであるという。そして、この構えをとる人の中に、人一倍愛を求めている人がいるという。それは当然である。人生初期に与えられるはずの愛情が与えられていないのだから、普通の人よりもはるかに強く愛情を求めているのである。しかしその求め方もわからない。愛情飢餓感が強いのに、愛情の求め方がわからない。そしてまた、それゆえに欺瞞に満ちた人に引っかかって次々に愛情面での挫折をくり返す。その結果、ますます人間への不信感を強めていく。おそらくそうした人は小さい頃支配的な親に育てられて、自分はだめな人間という自己イメージをつくりあげ、他人はすばらしいというイメージをつくった。それにしたがって恋愛をし、次々に裏切られる。その結果女はすばらしいというイメージの修正を迫られる。最後には「男もだめ、女もだめ」という観念を抱くに至るのではなかろうか。



人をアテにしない気楽さが自分を救う
終わる愛・終わらない愛 (P.76-P.77)
(PHP研究所)

 われわれは恋愛すると、恋人に対して時に態度がオーバーになる。それは、人間は自分でしか自分を救えないのだということを忘れるからだ。どんなに苦しいポーズをしてみても、人間はその苦しそうなポーズによって救われるということはない。自分の中に他人を救う能力がないように、他人の中にも自分を救う能力がないのだ。各人は各人の力によって自らを救済しなければならない。それが身にしみてわかった時、はじめて他人を目当てにした態度や言葉がなくなるのではないか。われわれが他人を目当てにした態度や言葉を吐くのは、他人が自分を救えると思っているからである。われわれは強くなれば他人に誤解されても救われるし、弱ければ他人に理解されても救われない。他人によって理解されるか、誤解されるかということは、自己救済にとって本質的なことではない。男が恋をすると野生の狼としての本能をなくすのは、恋人の気持ちにとりいり、その気持ちに従うことによって自らを救おうとするからである。たとえどんなに女を恋し、女にどんなに愛されても、男は女によって救われることはない。男は女の気持ちを踏みにじっても、一匹の狼として生きることによってしか救われないのだ。


BACK← →NEXT
「加藤諦三の言葉」目次へ戻る
トップページへ戻る

このページに掲載されている記事などの無断転用を禁じます。

Copyright (C) 2000-2006
加藤諦三、加藤諦三研究室