加藤諦三の言葉 第94回 [2002/11/06]

心のバランスをくずした時、まずどうするか
くやしさの心理 (P.213-P.214)
(三笠書房)

 心の空虚さを満たすためには、生き方を変えるしかない。目的志向的な生き方をあらためることである。成果を期待して、何かを達成することばかりをめざす生き方を変えない限り、心の空虚さが満たされることはない。
 目的志向に、あまりにも生き方がかたむきすぎたのである。目的を達成しようとすることが悪いのではなく、バランスを失ってしまったことが悪いのである。極端な目的志向は、成功に向かって他のものをすべて犠牲にすることである。
 成功に向かって努力することと、友だちと楽しく食事することのバランスがとれていれば、過食症にも完全中毒にもならないであろう。成功するためには友だちと楽しく食事をする時間を犠牲にしても仕方ない、という生き方が間違っていたのである。
 成功のためのコスト計算ができていなかったということである。百万円もうけても、そのために一千万円を使ってしまえば、九百万円の赤字である。たしかに成功はよい。しかし、成功という目的達成のために、何をどれだけ失うかということの計算ができていなかったのである。もちろん当人にとってみれば、それだけ成功に価値があったということである。
 なぜそんなに価値があったのか。それはその人が孤独だったからである。心の深いところで他人とつながっていないからである。小さい頃の親の期待と交流だけが人生になってしまっているからである。あとはその再生とそれに対する反応だけになってしまっているからである。そしてなによりも、自然な感情を許されていないということである。不完全な自然な人間という面が許されなくて、完全中毒になってしまったのである。
 その結果、心が空虚になった。だとすれば、まず自分が排斥した自然な自分を許すことで、心を満たさなければならない。では自然な自分を許すにはどうしたらよいか。



くやしさを力に変える生き方
くやしさの心理 (P.246-P.247)
(三笠書房)

 自分を傷つける者にまでなんでいい顔をしなければならないのだ。相手はこちらをばかにして、しかもこちらを傷つけているのである。相手はこちらにいい顔をするのか。しないではないか。
 相手にいい顔をするから相手に傷つけられて、その後、また自分で自分を傷つけているのである。それだからこそ、くやしくて、くやしくて、夜も眠れないのである。いつまでも水に流せないのである。そして一方で、そんな水に流せない自分を責めたりしている。自分はそのように傷つかない大物でなければならないと思いこんでいるのである。そして自分にも他人にもそのような大物であるような顔をする。そのようにして二重にも三重にも自分を傷つけている。
 世の中には、自分を不当に傷つける者にきちんと抗議する、行動的な人もいる。しかしこの本であげた敏感性性格的な人は、そうではない。それは、あまりくやしくないから行動しないというのではない。敵意に燃えて敵を倒すために行動をおこす人のほうが、敏感性性格的な人よりくやしがっているというのではない。
 いつもくやしがっているだけの人は、行動をおこそうとするとき、その行動を起こさせないなにか、つまり心の底に重い石のおもりのようなものを感じるのである。意識はそのくやしさ、くやしい相手に集中する。意識は自分を傷つける人に対する憎しみに集中して他のことは考えられない。自分を不当に傷つける人にきちんと抗議する人などより、ずっとくやしい気持ちが強い。それにもかかわらず、なぜか行動をおこそうとすると、それを妨げる重い何かを感じる。意欲と行動を結びつけるところに、なにか障害がおきている。その障害がなんであるかということについてできる限りこの本では書いたつもりでいる。億劫というのは、その障害のひとつなのであろう。



終わる愛と終わりのない愛
終わる愛・終わらない愛

 女の美しさのすべてはその愛の始まりにおいてあれわれ、女の醜さのすべてはその愛の終わりにおいてあらわれる。愛がためされるのは、愛の始まりではなく、愛の終わりである。愛の始まりにおいて語ったすべてのことが実行されるか、それとも口さきだけのものであったかは、その終わりにおいてわかることである。人は、愛の始まりにおいては美しい。それは愛が、その人を一時的に美しくするからである。しかし、その人が一時的に美しくなったのか、それとも、その人が根本においても美しいのかは、愛の終わりにおいてあらわれる。人は、愛の終わりにおいて本性をあらわす。愛が終わった時、自分がどんな人間であるか、相手がどんな人間であるかがわかるにちがいない。愛の始まりにおいては、人は自分にさえ自分がわからない。すべての醜い面は自分の気づかないところに隠れてしまうからである。その愛が幼い日の恋であれ、老いらくの恋であれ、皆から祝福される恋であれ、人目を避ける恋であれ、恋の始まりにおいてはすべての人は美しいのだ。そこで交わされる言葉の美しさ ―。その美しさを自分も信じ、相手も信じる。しかし、それがどこまで本当であるかは、終わるまで自分にも相手にもわからない。そしてもし終わらない恋があるのなら、その二人は本当にその言葉どおり美しかったのだろう。しかし例外を除けば、恋は終わるものである。


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