加藤諦三の言葉 第92回 [2002/10/23]

ゆずる一方で生きていないか
くやしさの心理 (P.69-P.70)
(三笠書房)

 なにかにつけて「ゆずる」人がいる。そしてなにかにつけてゆずる人のまわりにいる人は、その人がゆずるのを当然のように振舞いはじめる。
 小さい頃の家族の中でから学生時代の仲間、そして会社での人間関係にいたるまで、いつもいつも、生まれてからずっとゆずりつづけて生きている人がいる。そしてそのまわりにいる人は、そのなにかにゆずる人が、心の底でどのくらい傷ついているかを知らない。
 いや、たいていゆずっている本人すら、自分の心の中の怒りに気づいていない。だからこそ、そういう人は神経症になったり、抑うつ状態になったりして、破綻していくのである。
 誰だって小さい頃から好きこのんでゆずっているわけではない。三歳の子供が、七歳の子供が、十歳の子供がどうして好きこのんでゆずるであろうか。
 なんでもゆずる子は、親や兄弟にとって都合のよい存在なのである。また、なんでもゆずる友人は仲間にとって都合のよい存在なのである。なんでもゆずるサラリーマンは、会社や上司、同僚、部下にとって都合のよい存在なのである。



自分を知ってもらおうとするのは不作法ではない
くやしさの心理 (P.162-P.163)
(三笠書房)

 自分を理解してもらうように努力し、自分を理解してくれと頼むことは、決して失礼なことではない。控えめで内気な人は、そのようなことを頼むのは不作法なことと思いがちである。
 他人が自分を理解してくれるのをただ待っている敏感性性格的な人は、どうしても他人に主導権をわたしてしまう。自分についてのことなのに、他人に主導権をわたしてしまう。交流分析的に言えば、いつまでも犠牲者の立場を脱却できない。
 自分の性格、感じ方、考え方を他人に理解してもらうように努力し、説明していくことがどうして失礼にあたるのであろうか。あなたは礼儀正しいというより、臆病といったほうがいいかもしれない。
 先ほどから例にあげているヘレーネなども、「私は好意的な環境を待っている」と言う。待っているだけではどうにもならない。待っているのではなく、しかけるぐらいの気持ちが必要なのであろう。
 あなたは待っていて理解が得られないと、その周囲の無理解に順応しようとする。だからいつも苦痛を耐え忍んでいなければならなくなるのである。
 あなたが上品とか、礼儀とか、優雅とか考えていることは、もしかすると弱さの別のかたちかもしれない。弱さが上品という仮面をつけて登場しているだけかもしれない。



自分がわかれば相手のことも見えてくる
くやしさの心理 (P.173-P.174)
(三笠書房)

 いく先ざきで人間関係のトラブルをおこす人は、やはり心理的に問題がある。つまり、抑圧がある。自分の中に、自分が見ることを拒否している何かがある。
 たしかに自分が見えた時、世の中ってこんなにいろいろな性格の人がいるのかと驚くし、おもしろくもなる。これだけ違った人々の中で、すべての人に同じ態度で接したら、裏切られた気持ちになるのは当たり前である。
 こちらは裏切られたと感じても、相手はまったく裏切ったつもりはない。平気な顔をしている。そこでいよいよ憎しみをもつ。腹を立てる。しかし弱いから、正面切ってその怒りを相手にぶつけられない。そこで恨む。化けて出るということになる。
 同じことを体験しても、人によってその感じ方は全然違う。クレッチマーはこのことを失恋について述べている。
 原始性性格者は怒って爆発的な感情発作を起こすが、それですんでしまうであろう。発揚性性格の女性なら、婚約不履行の訴訟を起こすかもしれないし、男の家の近くの電柱に張り紙をべたべた張りつづけるかもしれないし、男の会社の前に位ってビラを配るかもしれない。無力性の女はものうい抑うつの中であきらめる。敏感性性格の女には恥ずかしい敗北だという。自分を責めさいなんで、長いこと感情緊張に苦しみつづけるであろう。


BACK← →NEXT
「加藤諦三の言葉」目次へ戻る
トップページへ戻る

このページに掲載されている記事などの無断転用を禁じます。

Copyright (C) 2000-2006
加藤諦三、加藤諦三研究室