悲惨な状況には、直面することである。そして、これに立ち向かうことが最大の解決方法である。シーベリーは「恐がってトラブルからしりごみしないで果敢に立ち向かって行くと、しばしばそれが絵に描いた風景のようなものだということを発見します。人生の十中八、九は、みせかけの上になりたっているのです。あっけらかんとあいさつしてやれば、相手はその力の大半を失ってしまうものです」と書いている。
そして次のような例を出している。森の中で母熊に出食わした男がいた。逃げ出すかわりに、彼はまっすぐ熊に向かっていった。熊は数歩近づくと立ち止まってためらい、ハックルベリーのなかに歩いていった。このとおりにいくかどうかは別にして、彼は逃げていてはいけないということを言っているのである。
事実を受け入れまいとしたり、責任を逃れようとすると、悩みは大きくなるばかりである。
失恋して口惜しがっている人間は、相手が自分の意のままになると思っていたのだろう。
相手が自分の意のままになると思うのは、甘えでなくて何であろう。失恋していつまでも口惜しがっていて、たちなおれない者は、まるで周囲の人間がすべて小さい頃の自分の母のようであるべきだと思っているのである。
口惜しい口惜しいなどといって、いつまでも幼児的依存を脱せない未練たらしい人間は、死ぬまで人を恨むだけで何も人生の喜びを味わうことがない。
口惜しさも、未練も甘えの延長でしかない。去ってしまった人への未練を断ちきる時、青年は一人の大人になれる。それが新しいより充実した恋をする資格なのである。
謙遜する人がものすごく傲慢であるということがよくある。自分のポストをけなす人がいる。あるいは自分の職種を卑下する人がいる。そのような人が逆に心の底では自分のポストや職種をものすごいと思っているということがよくある。
たとえば、教授なんて名前なくしたほうがいい、というように教授というものを酷く蔑視する発言をする人が、実は教授をものすごいものだと思っているということがある。あるいは「役人なんて恥ずかしくて言えない」というように役人をけなす役人が、心の底で非常識なほど役人をものすごい職業と思っているということがある。
自分を卑下することで自分の価値を高めようという、よくある心理である。実はこの自己卑下的謙遜はきわめて複雑な心理過程である。まず自分に自信がない。しかしそれを認めることができない。そこで虚勢を張る。そこで素直に俺は凄いぞという虚勢を張るのではなく、自分をけなすことで自分は凄いのだぞと周囲の人に自分の価値を誇示するのである。