「耐えて強くなる」ことは大切である。しかしその耐えているときに、自分が何故そんなに人生を辛く感じるのかを反省することを忘れてはならない。
耐えるということには二つある。神経症的な忍耐と心理的に健康的な忍耐である。何に耐えているかがはっきりしなくて、ただ「耐える、耐える」と騒ぐのは神経症的な忍耐である。それに対して、自分は今何に耐えているのかが具体的に分っている時には、心理的に健康な忍耐である。
自分は今、長距離を走る訓練に耐えている、同僚が足を引っ張るのに耐えている、ラグビーの辛い訓練に耐えている、失恋に耐えている、貧乏に耐えている、嫌がらせに耐えている、辛い仕事に耐えている、論文を書く苦しみに耐えている、このように今何に耐えているかが具体的に分かっているときには、心理的に健康な忍耐である。
しかし、そのような具体的なものがないのに「耐えている、耐えている」と騒ぐのは神経症的な忍耐である。「耐えて強くなる」というときに「耐える」というのは、神経症的な忍耐をいっているのではない。
フランクルは、人が捕虜や強制収容所のような限界状況で生きぬけるのは、生きぬかなければならないという意味を見つけるときだと言う。人生が自分に何かを与えてくれるのを待っている人は、困難な状況で生きぬくことはできない。他人が自分に奉仕することで自分を幸せにしてくれることを当然と感じているような人は、困難な状況で破綻する。
人生は受け身で生きる人にとって苦しみに満ちている。受け身の人ほど苦しみに耐えられない。受け身の人ほど耐える力がない。耐えて強くなるということは受け身の生き方を捨てて、積極的に生きることに立ち向かっていくということである。
恥ずかしさの心理の研究で有名なスタンフォード大学教授ジンバルドーは恥ずかしがり屋の人は過度に内気だが、ただ一つ外向的になることがあると言う。それは自分が恥ずかしがり屋だということを主張するときである。何故その時だけ内気な人が外向的になるのであろうか。
それは「私は内気で、恥ずかしがり屋です、だから私に何かを期待しないでください」と言っているからである。責任回避だけにはエネルギッシュなのである。
それだけのエネルギーを生産的なことに向ければと思うが、決して生産的なことには意欲的にならない。おそらくこのような恥ずかしがり屋の人にとって自分が恥ずかしがり屋だということは財産なのである。この自分の弱点にしがみついていれば社会人としての責任を回避できると思うからである。
自分の弱点を口実にして自己実現を避けている人は多い。酷い人になるとなんでもそのようなものを見つけてくる。「私は背が低い」と言って聞かない人がいる。実際はそんなに低いわけではない。彼はそれを口実に自分の潜在的能力を実現していくとういことを避けているのである。