恋人同士がよく、“君を幸福にしてみせる”などと言ったりする。とくに男は自分の恋人にそう言うことによって、自我の高揚を感じたりするものである。
そして女の方は、“君を幸福にしてやる”とか、“幸福にしてみせる”と言われると、自分が愛されているような感じがして幸せになるものである。
しかし、もともと幸福とは自分でなるものであって、他人に幸福にしてもらうものではない。他人の力で幸福になれるものでもないし、他人の力だけで不幸になるものでもない。あくまでも幸せとは自分でなるものである。
自ら虚栄心に苦しんでいるものは、虚栄心のない人間にひかれる。虚栄心に苦しんでいる男性は虚栄心のない女性を天使のごとくほめたたえる。しかし、その賛美の言葉はその女性を語っているのではなく、その男性が自らの虚栄心にどれだけ悩んでいるかをしめしているにすぎない。賛美の言葉はその女性の美しさを物語っているのではなく、自分の虚栄心の醜さによる自己嫌悪の深さを物語っているのである。
そしてそのような恋はいずれ破滅する。さきの彼と彼女はその典型的なプロセスなのである。なぜなら、彼らは決して愛しあっていたのではないからである。彼は東大生の女性を他人に見せるための恋人としていたにすぎない。自分が成績が悪いという劣等感、そして他人は勉強すれば成績があがるのに自分は勉強しても成績があがらないという他人への怨恨を含めて、他人に見返してやりたいという気持が働いている。
その人を愛しているのではなく、その人と付きあうことによって怨恨のはれることが何よりもこの付きあいのポイントであったのだ。二人とも見えているのは自分だけだったのである。その人と一緒にいることによって、怨みをいだく他人にザマーミロといっている快感こそが二人の恋だった。
愛することは花園を歩くことではなく、荒涼たる砂漠をいくことである。相手を愛するが故にこそ、孤独をひしひしと感じることさえあるのである。
愛するからこそ孤独であるとは、なんと人間の存在とは悲劇的であることか、愛するからこそたった一人で耐えなければならないことが多いのである。愛するからこそ誰にも言わない自分一人の沈黙の時間を持たなければならないのである。
たとえ、どんなに婚約者のために会社で大きな苦労をしょい込もうとも、たとえ婚約者のためにどんなにつくそうと、もしその人が“こんなにまでしているのに”と自分のやったことを感じるかぎりまだ人を愛せるだけの人格には達していないのである。
どんなに何をしようと、自分のしたことを考えるかぎり人を愛せるだけの成熟した人格には達していない。愛するとは自分の立場にたって相手を考えることではなく、相手の立場にたって相手を考えることである。