甘えた人間が恋愛をしたときを考えてみよう。相手が常に自分に注目していることを求める。恋人が自分以外の異性と少しでも話をすれば、不機嫌になる。相手が自分に常に注目していてほしいからである。そして、この甘えの気持ちが満たされないと、すねたり、ひがんだりする。確かに甘えている人間は要求が多い。しかし、この要求というのは、詮じつめれば、他人が自分に注目してほしい、他人が自分を特別な人間として扱ってほしいという要求にすぎない。甘えた人間が、就職しようとする。そうすると、自分だけを特別に採用してくれることを求める。会社で働きだしたとする。上役が自分を特別に扱ってくれることを求める。確かに、甘えている人間は要求が多いのであるが、この要求というのは、多様なものではなく、今も述べたとおり、詮じつめれば、他人が自分に注目してほしい、他人が自分を特別に扱ってほしいということにすぎない。
ところで、人間はなぜ劣等感を持つのだろうか。自分が音楽の才能を持たないことは音楽的に見て劣等であるが、それはただちに劣等感を生むものではない。音楽の才能がないのに人前で歌う大音楽家になりたいと思ったとき、それは劣等感となる。駆け足が遅いのに運動会で選手リレーに出たがる人々は劣等感を持つ。駆け足が遅くても選手になりたがらない人は劣等感に苦しむことはない。受験勉強が苦手のくせに有名大学に入ろうとする人は劣等感を持つ。さらに大音楽家になりたいとか、社長になりたいとかいう欲求が激しければ激しいほど劣等感もまた激しくなる可能性がある。自分が劣等であることを自分が受け入れられないとき、人間は劣等感を持つ。そして、この劣等ということは相対的な問題であって、何か絶対の基準があるわけではない。
“モラトリアム人間”ということがさかんにいわれるが、モラトリアム人間というのは、三百六十度逃げ道しかないと考えている人間のことである。たった一本の逃げ道さえもふさがれているのが、われわれ人間であるのに、自分のまわり三百六十度が逃げ道であると錯覚しているのがモラトリアム人間なのである。そして、逃げて逃げて逃げまくった結果が、目的意識を失い、生きているはりを失い、ただ、その日その日をむなしく生きるようになってしまったのである。モラトリアム人間というのは、避けることのできない現実を避けようとした人たちなのではなかろうか。モラトリアム人間というのは、アイデンティティを失っている。アイデンティティというのは、いろいろな定義がある。それについて書かれた本がいろいろあるが、私にいわせれば、「逃げのない」ということである。