「愛はすべての人にやってしまったときに、もっとも富んでいる」(グッコー)愛についての僕の好きな名言だ。現代の人間は、どうして捨て身の恋という幸福の恋を忘れてしまったのだろう。恋から何が得られるか?そんなことを考えて恋する女は、恋の幸福を味わうことはできない。自分を恋の中に捨てることのできる女だけが、本当に恋のよろこびと悲しみを知っているのだ。恋に自らを捨てることは、その恋人のためにすべてを捧げつくすということだ。恋は遊びではない。本当の恋とは命がけなのだ。自分が生きるか死ぬかということだ。もちろん、遊びの恋がいけないとか、浮気がいけないとかいっているのではない。遊びの恋とは遊び以上のものではない。これはつまり、遊び以上のよろこびを得ることができないということだ。テレビを見ている。喫茶店でダベる。これは遊びだ。
われわれに残されているもっともすばらしい恋とは、悲恋でしかない。永遠の恋とは悲恋なのだ。責任感と恋との板ばさみになった時、男としての責任をとって恋を捨てていく。永遠なる恋とは、そのような恋をいうのだ。そして、そのような恋によって、その恋の思い出によって男は生きていかなければならないのだ。ジイドの「ナタナエルよ、きみに情熱を教えよう。平和な日々を送るよりは、悲痛な日々を送ることだ」という言葉式にいえば、恋とはこうだ。「青年よ、きみに恋を教えよう。平和で祝福される恋よりも、悲痛な板ばさみの恋をすることだ」平和な、皆に祝福される恋など、たちまちのうちに色あせてくる。恋だけの恋など、けっして長いこと人生の意味にはなり得ないのだ。そんな恋は、やがてけだるさと、何か物足りない恋になり果ててしまうのだ。
別れる恋を、どうして人は粗末にするのだろう。恋には生涯つづく恋もある。別れなければならない恋もある。やがて別れねばならないと決められた恋の美しさに傷つくことを、どうして恐れるのか。別離の恋の美しさに傷つくことを恐れる青年に、人生はわからない。人生とは、終わりの見えている美しき情熱なのだ。傷つくこと、それが人生の本質なのだ。生涯つづく恋ならば、二人の一緒にいる時間は長い。しかし、別れる恋なら時間は少ない。その少ない時間のなかに、生涯にわたる恋についやす全情熱をかければいいではないか。一回会うことに、千回会うことの愛をそそげばよいではないか。どうせ別れる恋なのだ、というなら、どうせ死んでしまう人生なのだ、ということになってしまう。