どうして人々は遂げられぬ恋について悲観的な見方をするのだろう。「終わりのある恋だから、それなら恋をしないほうがいい」「いずれは別れなければならないんですもの」などという。しかし、遂げられる恋だって、やがては別れるのではないか。どんなに祝福されたとて、死んでいく時は別れるのではないか。女の子のなかには「結婚につながらない恋はしないほうがよい」などという人がいる。それは今いったように、別れなければならないからだ。しかし、結婚したとて死ぬ時がくるのだ。人間はいつかは死ぬのだ。別れなければならない恋はしないというような人は、人生を生きないというのと同じなのだ。人間はやがて死ななければならないのに生きているのだ。それでいて、どうして恋だけ別に考えるのだ。
人は何をもって前向きというのだろう。「たった一度の人生だもの」という。だから前向きに行こうという。それなら「前向き」の人間とは、世俗的道徳観にひたった超健康優良児のことをいうのだろうか。たとえば、ある若者が、遂げられぬ恋に苦しんだとする。人は何というか。「その人のことを忘れて生きなさい」という。そしてその恋する人を忘れて生きることを「前向き」といい、その恋ごころを後ろ向きという。しかし、それならば「前向き」ということは「生きる」ということとどうかかわりあうのだ。僕は「前向き」ということは「生きる」ことだと思う。恋に苦しむことだと思う。そしてその恋を大切にしながら生きていく道をさがすことだと思う。恋を忘れて、いったい何の人生なのだ。
僕は女がいちばん美しく女らしく見えるのは次のような時だと思う。理性の勝っている女、道徳的観念のものすごく強い女が「私、もうダメなの」とくずれ落ちんとする瞬間である。恋してはならぬ人を恋し、自らのうちで戦いつづけ、必死で燃える火を消そうとして消せず、ついに「女」に負けそうになる瞬間、この瞬間こそ女がもっとも美しい時だ。つまり、女がもっとも美しく見えるためには、時代の道徳的観念を強くもっていることが必要なのである。時代の道徳的観念、つまり「たてまえ価値」だ。よごれた大人のように、たてまえ価値を平然として人前で説き、それを陰で破ることのできる人間に美しさはない。