激しく恋するのでなければ、わずかなもので満足できよう。しかし、その人のいままでの人生観、世界観を根本から揺り動かすほど激しく恋してしまったら、人間はけっしてわずかなもので満足しはしない。だがしかし、満足しなければならないのが人間なのだ。そして、その満ち足りようとする気持ちを外に向けていくより仕方がない。そして、その直接に恋人に向けることのできないエネルギーを、激しく外の世界にぶっつけ、その過労のなかで恋ごころを満足させるより仕方ないのだ。その女を本当に恋したという証拠のためにも、男は倒れなければならない。男の恋のあかしは、人前で結婚式をして、安っぽい愛を誓うことではなく、仕事の中で倒れることなのだ。
男は何かもっとも尊いと信じるもののために命を捧げる。そしてそのもっとも尊いと信じるものに、いろいろな名をつける。自由とか、平和とか、フランスとか、人類とか-。いずれにしても、男の胸の中には何か言いあらわすことのできないものへのあこがれがある。そして、そのあこがれのための生きることを「男が生きる」というのだ。だが、「おれは自由のために死ぬんだから」といったシャリエが「おれの勲章を持ってきてつけてくれ」といった。男はロマンチストだ。だからこそ、その胸の中にあるあこがれのために生き、そのために死のうとする。しかし、その時、何か「勲章」が欲しいのだ。それは、男がロマンチシズムだけでは生きていかれない証拠かもしれない。もちろんその勲章とは、けっして世俗的なものではないのです。「えらい」大臣にもらったとか、利益のくっついているものではない。それは青春の血をわかして恋した乙女からのプレゼントであってほしいものです。
恋とは、あらゆるものより強いものなのだ。道徳よりも、何よりも強いものなのだ。道徳によって押えることができるうちは、まだ本当に恋してはいないといえる。恋より強いものは、この世の中に、たったひとつしかない。それは男の理想を求める気持ちだ。恋の魅力はあらゆるものにまさる。しかし、理想の魅力にだけはかなわない。「恋をすることと賢明であることは両立しない」(ベーコン)「恋ごころというやつは、いくらののしりわめいたところで、おいそれと胸の砦をでていくものでもありますまい」(シェークスピア)恋ごころよりも理性が勝つとすれば、まだ恋していないのだ。罪を恐れる気持ちより、あの人に会いたいという気持ちのほうが強いのが恋なのだ。「無分別なことをしでかさない恋人は、けっして恋人ではない」(T・ハーディ)