人間は、放って置いたら誰だって必ずといっていいほどひねくれるにちがいない。素直に人の話を聞いている人間も、充分にひねくれるだけの理由はあるにちがいない。しかしそうした自分を抑えて、「これではいけない」「もっとえらくならなければいけない」と自分自身に言い聞かせて、そして素直になっているのである。 現在のような社会の中で、もし生まれたままで、努力や修養をすることなしにひねくれない人間がいたとしたら、むしろその人の方がおかしい。普通の人間で素直な人間がいるとすれば、それはすべてドロドロに血を流して、ある時、肥大した自我を切り捨ててきた人間である。
男にとってまったく自分に都合のいいようになってしまった女というのは、やはり魅力のないものである。女にとってまったく都合のいいようになってしまった男というのは、やはり魅力のないものであろう。 女にとって魅力的な男というのは、女の思い通りにならない男である。荒野をかける一匹の狼は女にとって不都合な存在であるが、女にとってもっとも魅力のある男なのではなかろうか。男にとっても、女が朝から晩まで一年三百六十五日、自分のことだけをしてくれるのは気持ちがいいけれども、やはりそういう女というものは魅力がないものである。男にとっては面白くないことであるが、男の立ち入ることのできない世界を女が持って、その世界において絶えず自己を研鑚する女はやはり魅力的なのである。
永遠の恋は、別離の悲恋である。悲恋をナンセンスという現代の青年であればこそ、「永遠」もまた同時に失わねばならなかったのである。厳しさのなかにしか生き甲斐のないことを、悲恋のなかにしか恋のないことを、積極的に男らしく認めて、この人生の悲劇に涙したものだけが、人生の意味をつかみうるのだ。人生、それは一個の悲劇である。これを認めないかぎり、人生の歓びもまた味わうことができないのだ。「わずかなもので満足しないものは、いかなる富にも満ち足りることはない」(ヴィーラント)この名言は富だけにあてはまるものではない。恋についてもあてはまるのだ。恋する人が、キャラメル一個くれたことに満足できないものは、その恋人が体をくれても満足することはない。