われわれは理想的な自分の姿を想像する。そしてあるほんの小さな成功で、あたかも自分が夢に描いていたその姿にいっぺんになってしまったかのごとき錯覚をもつ。そして優越感をもつ。しかしこの優越感は自己の不完全感から発生する劣等感のうらがえしにしかすぎない。
そうした時のわれわれは必ず自己の優越を人に見せびらかそうとする。そして自分のその優越した姿を人が認めてくれなければ、その人を激しく憎む。だがわれわれがその人を憎むことが、何よりもわれわれの優越感は自信ということとかけはなれている証拠ではないか。
もしわれわれが本当に自信があるなら、自分の価値を人が認めてくれないからといって、そんなに人を憎むものではない。
自信とはもっと静かで落ち着いたものなのだ。
もはや最高の価値と信じていた確実なる価値は崩壊した。最高の価値が崩壊するさまをまざまざと見たのは、われわれよりさらに上の世代であろう。そして今の十代、二十代の世代は、問いに対する答えがないのではなく、問いすらもない時代を生きているのであろう。こうしたことで世代によって生きるということに対してかなり大きな前提の食い違いがある。
大人たちが若者に「何でそんなことをするのか」ということを聞いた時、よく返ってくる言葉に「別に」というのがある。何故髪を長く伸ばしているのだ、という問いに「別に」と言うし、何故海に泳ぎに行くのだ、と言われれば「別に」と言う。そしてとうとう最後には、「どうしてそんなに何故何故と言うのだ」と疑問を持つ。むしろ何で髪を伸ばすのに、海に泳ぎに行くのに、同棲するのに、そんなに何故ということを考えなければならないのかと思うのであろう。
そして、この「別に」という言葉こそ、過ぎていくだけ、通り過ぎていくだけ、吹き抜けるだけのニヒリスティックな「生」をあらわしているのではなかろうか。
服従従順の裏には敵意が隠されていると、フロムをはじめいろいろな人が指摘している。それはその通りである。しかし、さらにそのような人は攻撃性をも抑圧することになる。支配している側にとって、被支配者が攻撃的であることは望ましいことではない。許されない傾向である。そこで支配される側は攻撃性を抑圧し、支配者のお気に入りになろうとする。結果として臆病な人間になる。
攻撃性と能動性とは深く関係している性質である。攻撃性を抑圧した人間は臆病であると同時に受け身の消極的人間になる。精神分析の本を読んだりして、親への敵意を抑圧していたと気がつく人は多い。しかし、たいていはそこまでである。自分は親への敵意ばかりではなく、攻撃性一般を抑圧しているとは気がつかない。子供の攻撃的傾向は支配的な親にとって望ましくない傾向なのである。