何によらず青年期というのは理想的なことをかかげる。そしてそれがダメだと、深い劣等感におそわれて、「俺はダメだ」と思い込んでしまう。青年は現実に敗れるのではなく、理想に敗れるのだ。
立派すぎる計画をたてる。そして、人間として、青年として、それを実行しなければならないような気持ちになる。
そもそも、人間に対する要求が過大なのである。そして、そうした計画を実行できないような人間では、これから先、生きていくことができないようにさえ思い込んでしまう。「今のこのままの自分でいいのだ。誰に気がひける必要もない」だが、あまりに理想主義的な人間は、なかなかそうは思えない。
自分にできるだけの勉強をしよう、それでいいじゃないか。
自分のできる生き方をしていてどこが悪いのだ。そして行きつくところに行けばいいではないか。その行きつくところがどこであれ、力いっぱいやっていれば、それで行きついたところが立派なのだ。
大切なのは、行きつく到着点そのものに価値の差があるわけではない。どこの場所が立派で、どこの場所がダメなどということは全然ない。力いっぱいやっていて、そして行きついたところ、それが立派なところなのだ。
場所が人間に価値を与えるのではない。人間が場所に価値を与えるのだ。立派な人間の行きついた場所が、立派なところで、ダメな人間の行きついたところがダメな場所なのだ。
ひとつが良ければ、他は必ず悪いというものではない。これは良い、従ってあれは悪いという論理はなりたたない。
ましてや、これは全面的によい、従ってあれは全面的に悪いなどとはもってのほかだ。
あれもよいし、これもよいかも知れない。あるいは、あれの一部は良くて、これの一部は良いのかも知れない。
だいたいにおいて、はじめから結果のよしあしなどない。よい結果も悪い結果もない。力いっぱいやってでた結果がよい結果で、そうでなくてでた結果がわるい結果なのだ。成功や勝利がよい結果で、失敗や敗北がわるい結果だなどということはない。