加藤諦三の言葉 第56回 [2001/12/27]

演技からは本当の信頼関係は生まれない
「立派な人」を演じても心はむなしい (P.54-P.55)
(大和書房)

 「いじらしさ」や「けなげさ」を目的にすると、それを売り込むために、人は「いじらしさ」や「けなげさ」の演技をすることになる。
 ところで演技の「いじらしさ」や「けなげさ」か、本当の「いじらしさ」や「けなげさ」かはどうしてわかるのであろうか。それはまず、演技の「いじらしさ」や「けなげさ」からは、心のふれあいが生まれない。信頼関係が生まれない。
 演技をしている側から言わせれば、「こんなにけなげに尽くしているのに」という不満が生まれる。そもそも、その人はなぜ、けなげに尽くすのか。それは、けなげに尽くすことで相手の気を引こうとしているからである。相手を自分のものにしようとしているからである。しかし、なかなか相手は自分のものにならない。当然相手に不満になる。だいたい演技をする人は、うまく演ずることに執着しているから相手が見えない。相手が真に何を望んでいるかを理解していない。だから、尽くすわりには相手の満足がない。あるいは満足が長続きしない。



信じる価値とは
「立派な人」を演じても心はむなしい (P.65)
(大和書房)

 われわれは本来、信ずべきもの、コミットしていくものである価値をもっていない。自らの身をあずけるべきは自ら信ずる価値なのであるが、われわれは価値に身をあずけないで、上役に身をあずける。政治家はよく、派閥のボスに身をあずけてあるという。同じくサラリーマンも派閥のボスに身をあずける。学問の世界も、宗教の世界もみな上のものに身をあずけている。自分が信じるものがないから、ボスに身をあずけるのである。
 自分をあずける価値、信じるべき価値とは具体的にはどういうことか。私はこの道を歩くという、その道である。この道は私だけに開かれた道だから、私はこの道を意を決して歩くという、その道のことである。たとえ苦しかろうが、この道は私にあたえられた道だから、私はひたすら歩くという道である。その先にあるのは後悔ではないと信じて歩いている人が、信じる価値を持っているということである。



なぜ劣等感が生まれるのか
「立派な人」を演じても心はむなしい  (P.73-P.74)
(大和書房)

 自分の容貌にみとれているナルシシストというのもいるが、自分がふとりすぎているとか、やせすぎているとか言って、自分の容貌が気に入らない女性もいる。その自分の容貌が気に入らない女性が、毎日外出するのにいったいどれを着ようかと大変に気をつかう。
 そして彼女は、毎日ほんの数分間であろうが、鏡の前で自分を見、不満になるのである。
 自分に見とれるとは、自己の世界に埋没している人である。非現実の世界で生きている人である。逆に自分が気に入らないという人は、何か自分の望むものが手に入らない人であろう。自分の欲するものが手に入らないというのは、自分と他人とを比較しているときである。
 自分の容姿は誰と比べて劣っていると思ったのか。どの基準と照らして、自分の容姿は悪いと思ったのか。「これこれ」が美人という画一的な基準で勝負するなら、自分はつねに一番でなければダメということになる。つねに一番でなければ劣等感に苦しむことになる。しかし、世の中にはなぜ劣等感に苦しんでいない人がいるのだろうか。


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