「いい子」でいる必要がない人間が強い人間であろう。感謝されて生きることは、われわれにとっては快感である。しかし感謝されるとは、しょせん他人の期待にこたえるというだけのことではないか。他人の期待にこたえなければ憎まれ、期待にこたえれば感謝される。もっと言えば、精神的にあるいは物質的に他人プラスになれば、感謝されるのである。そして、ことに他人のエゴイスティックな期待にこたえた時が、もっとも感謝される。
もっと露骨に言えば、エゴイストにとってこちらが利用価値があり利用されている限り、彼らから感謝されるのである。しかし、次元の低い他人の期待にこたえようとあくせくしても、結局何もならないのではないか。
自分自身を表現することをわれわれは恐れている。そして、われわれは自らの喜びや悲しみを表現することを゛はしたない”という形で抑えていることがたいへん多い。
したがって、自分自身の感情を素直にそのまま表現することに対する社会的抑制が強い。たとえば、どんなかなしい時でも泣かない人間を゛よくできた人間”というふうにして表現する。゛よくできている”とは耐え難きを耐えることである。しかし、親しい人間を失った時、自分の悲しみをこらえることの方が、かえっておかしいのではなかろうか。泣いていいかどうかは、その時の状況判断である。どうもわれわれは生き方が不自然なのである。
たしかに、悲しい時にも泣かずに冷静に事を処理できるのが理想である。しかし、無理をしてそうすることは、かえってよくないのではなかろうか。
優越感というのは劣等感を基盤にして生まれてくるものである。劣等感と劣等であることとは異なる。かけ足が遅いくせに自分が遅いということを受け入れられず、自分が選手になりたがるような人間を劣等感があるというのである。
そしてこのように劣等感をもつものは、ハナモチならない優越感をもつものである。優越感と自信のちがいはそこにある。優越感は劣等感を基礎にしているが、自信は劣等感と関係ない。自信がある人間というのは、ありのままの自分が受け入れられる人間である。自分が生きてきた証を持っている人間である。そういう自信のある誇りに満ちた人間というのは大変魅力的である。
自分が美人でもないのに美人でないということを認められず、ものすごいお化粧をして美人ぶる女は劣等感の強い女であり、そして今度は自分よりも美人でない女を見かけようものなら、その女に対してものすごい優越感をもったりするものである。
ありのままの自分の姿を受け入れて、その上で自分を磨こうとする女性こそが魅力を発揮するものではなかろうか。