人に気にいられることを心の支えにしてきた人は、「好きなことをしていいよ」とか、「好きなようにしていいよ」とか言われると、どうしていいかわからなくなる。そう言われると、道に迷ったような心細さを味わう。好きなようにしようとしても、何か心もとない。
このように自分の好きなことを好きなようにするということが、心細くてできなくなっている人がいる。そこで人間関係においてまず相手の意志を聞く。そしてその意志に従おうとする。自分の意志ではなく、相手の意志したがっていたほうが安心するのである。そのほうが生きた心地がする。相手の意志を聞かないで自分の好きなようにしようとすると怖くなる。嫌われるのではないかと不安になる。そのような人は神経症的な傾向がかなり進んでいるのではなかろうか。
自分の好きなようにして、なおかつ人から自分が愛されるということが信じられないのである。
問題は成長動機に従って行動したほうが安全欲求も満たされるのに、それを間違って解釈して苦しんでいる人が多いということである。つまり成長動機にしたがって行動したほうが愛されるのである。
他人をやけに気にする人がいる。しかし人を気にしているように見えるが、じつは重要なのは他人に自分をよく見せることだけである。つまり人を気にしているのだけれども、人などどうでもいいのである。
「人を気にしている」というのは、「人が自分をよく思ってくれているかどうかを気にしている」ということで、「人が苦労していないか、人が寒い思いをしていないか、人が淋しがっていないか、人が喜んでいるか」ということを気にしているわけではない。
人を喜ばせたいというときに、基本的に二通りの動機がある。一つは相手が喜んでいる姿を見て自分が嬉しい、相手を喜ばすこと自体が目的である。そのような行動の動機は思いやりであり、愛情である。
もう一つは相手を喜ばすこと自体が目的ではない。相手を喜ばすことで相手に自分が気にいられることが目的である。「自分が」相手に気にいられることが目的で相手を喜ばすことの動機は不安であり、劣等感である。
相手から何か頼まれて引き受けることがある。そのときにも基本的に二通りの動機がある。一つは相手への思いやりから引き受ける。いたわりの気持ちから引き受ける。もう一つは断って嫌われることが怖いという恐怖から引き受けることである。悪く思われることが怖い人はなんでも引き受ける。恐怖は自己不在から生じる。
自分というのは生き方のなかに表現されてくる。最近よく目にする「自分さがし」というのは、正確には「自分の生き方さがし」なのである。「春が来た春が来た」という童謡がある。そして「どこに来た?」とたずねる。「山に来た、里に来た、野にも来た」と答える。春は人が来るように町に来るのではない。春は空を通して、草木を通して、小川を通して来る。春は春として表われるのではなく、小川の流れのなかに表現される。人が来るのはまさに人が来る。そこが、春が来ることと決定的に違う。そして「自分」とはこの「春」と同じなのである。「春が来た」と人々は感じることができる。自分というのはそのようにこの世界に感じられる。「自分がない」という言い方は「どこにも自分が来ていない」のである。
そして春夏秋冬があるように、自分もいろいろとある。仕事を通して「自分が来た」り、趣味の絵を描くことを通して「自分が来た」りする。
またよく「自分を感じられない」という言い方をする人がいる。それは話をしていても、話を通して「自分」が表われてこないということである。
何をしていても「自分が来ない」のである。それが「自分がない」とか自己不在という言い方をする人が表現しようとしていることである。それは自分を取り巻く世界をうまく感じとれていないということであろう。