自分の進路を自分で決める。そこに責任があり主体がある。現代人はあまりにも“いい子”でいすぎる。それは何よりも責任を避けたいからである。
僕のところに相談に来る人を見ていて感じたことは、何とかして自分の人生に責任を取らないでおこうという姿勢である。自分で自分の人生に責任を取らないでいるにはどうしたらよいかということばかり考えている。悩んでいる人は責任を逃れることばかり考えているから悩むのである。避けられない責任を避けようとするから悩むのである。
つまり何かを相談に来るのであるが、それはかたちだけである。質問というのは皆かたちだけである。それでは何をしに来るのか。それは僕に決めてもらいに来るのである。心理的に離乳するのはどうしたらよいか。質問はそうである。しかしそのようなことについては、僕はいろいろすでに書いている。質問に来る人も読んでいる。家を出たほうがいいのかどうか、親からはなれたほうがいいのかどうか、いくら書いてあっても質問に来る。それは自分で決めるのではなく、僕に決めてもらおうということである。
ニュートンは林檎が木から落ちるのを見て引力を発見した。シーベリーという心理学者が次のように言っている。「林檎は何世紀もの間落ち続けていたのである。しかし彼以前には誰も、その重大さの発見に思い至らなかった」。彼はその林檎が落ちるということにインスピレーションを刺激されたのである。「林檎が落ちるというような実に単純なことが、貴方の心配事についても鍵になり得ます。貴方が捜す気になればきっと見つかるでしょう」。それは心配事を解決する鍵についてばかりではなく、人生において意味のあることを見つけることについてもいえるのではないか。
その気にならなければ人は何も意味のあることを成し遂げることはできない。生きがいも見つからない。「貴方の受入態勢が整っていないと、友達の最高の導きも、書物の真の情報も助けにはなりません。イエスの声も、パリサイ人からはなんの反響も得られませんでした。とびきり素晴らしい時間も、閉ざされた心には退屈な時間でしかない」。
シーベリーのいう通りである。とにかく前向きの心の姿勢がなければ、どんな環境にいてもつまらない、つまらないといい続けるだけである。
もう一つシーベリーがあげている例がある。
ある英国貴族の場合である。欲深い年老いた英国貴族である。六十年間、貴族の身分を脅かしかねない新しい法律をすべて恐れてきた。民主主義に対して絶えず恐怖感を抱き、そして絶えず人を恐れてきた。人里離れた大邸宅の中でも、彼はほとんどひとりぼっちで過ごしてきた。自分の召使いたちのことさえも゛急進派”なのではないかと疑っていたからである。やがて戦争が始まり邸が爆撃で焼かれてしまった。けがこそしなかったが、避難をしなくてはならなくなり、彼は防空壕で一週間過ごした。あれほど恐れていた“人間”たちに囲まれて。しかも彼には想像もつかないような汚い情況で。
たとえもしパリサイ人がキリストの後について収税吏や不信心な人々の家に入ったとしても、この老男爵ほど大きな変化は経験しなかっただろう。特権意識は一掃された。彼は赤ん坊やむずがる子供たちの世話を手伝い始めた。目には新しい光を帯びてきた。とても不思議なことに持病の痛風も消えてしまった。しばらくすると彼はその集団で一番の活発な働き手になったのである。たえまなく落ちてくる爆弾も恐れなかった。
同胞に抱いていた恐怖心のかわりに、新しい愛が生まれ、彼に勇気を授けたのである。彼は゛注意の対象を変える”ことで救われた。