嫌われる人というのは、実際には10の力しかないのに、あたかも20の力があるように人に印象づけようとする人である。10の力の人でも、20の力の人でも、実際の自分の力通りの姿を人に見せて平気でいられる人というのは、皆に好感を持たれる。
嫌われる人というのは錯覚している。自分が10しか力がないのに、20あるように見せることで尊敬されると思っているのである。また、心を許す友人がいないのに、あたかも心を許す人が何人もいるかのように人前で振舞うことで、皆に尊敬されると錯覚している。
また、人からいったんは好かれながら、その人間関係が長つづきしない人がいる。それは愛情欲求に満たされていない人に多い。愛情欲求が満たされていない人間は、ある人にやさしくされると、サァーッとその人にすり寄っていく。そして、その人が自分を拒絶しないと見通すと、その人にすべてを求めはじめる。
やさしくした方は、その人のすべてを受け入れるというわけではなく、友人として、先輩として、学生として、教え子として、先生として、後輩として、恋人として、それぞれの立場として、その人を受け入れたのであるが、愛情飢餓感をもつ人はやさしくしてくれた人にすべてを求めてしまう。
シーベリーが、白鳥によい声で鳴くことを期待するのは、期待するほうが間違っている、と言っているが名言である。ただ、これができる人は愛情欲求の満たされている人だけである。愛情欲求の満たされている人は、白鳥には美しい姿を期待し、けっして美しい声で鳴くことを求めない。
いつも家で不機嫌な人は、やはり神経症的なところがあるのだろう。まず、不機嫌な人は神経症的要求を持っている。あるいは甘えている。要求が多いから不満になる機会も普通の人より多い。自分の要求が通らないから怒る。しかし、その怒りを表現できない。なぜなら、その怒りを表現することで相手を失う可能性があるからである。
甘えている人は、皆が自分の言うことにいつも特別の注目を払わないと不満である。甘えている人は、皆が自分の惨めさに特別の注目を払って「かわいそうに、かわいそうに」と騒がなければ不満である。甘えている人は、皆が自分の障害に特別の注目を払って「大変ね、大変ね、でもこれを克服しようとするなてすごい」と騒がなければ不満である。甘えている人は自分が疲れている時には、皆が自分の疲れに特別の注目を払って「疲れてそうね、休んだら、きつそうね」と騒がなければ不満である。