劣等感の激しい人やナルシシストが疲れやすいのは、ひとつには何事にもあせっているということがある。やっていることそのこと自体に興味が持てないので、とにかくそれは早くすませようとする。劣等感の激しい者やナルシシスト、あるいはメランコリー親和型の人にとって自分が今従事していることは、仕事であれ、遊びであれ、とにかく早くかたづけてすましてしまうものでしかない。彼らは何度も言うように仕事をしていれば、その仕事が自分に与える威信に興味を持ち、テニスをやっていれば、そのテニスをやっている自分の勇姿に関心がある。仕事や遊び自体に関心がない以上、とにかく早くそれをすませてしまって、次のことをしたいのである。興味のないことを自分に鞭打ってしていれば疲れるのはあたり前である。人は同じことをしていても、心理的には同じことをしているのではない。ある人は音楽を聴いて時を忘れるのに、別の人は退屈で聴いているだけで疲れる。ある人はテニスをして時を忘れるが、別の人は自分に鞭打ってしている。ある人にとって疲れることが、別の人にとって疲れをとるものである。
あなたは「嫌と言えない」と言うが、本当は嫌と「言いたくない」のである。嫌と言わないということは、嫌と言いたくないから嫌と「言わない」のである。それは何度の言うように、ひきつづき相手の好意を確保しておきたいからである。嫌と言って好意を失うくらいなら、嫌と言わないでひきつづき犠牲者のままでいたい、ということである。
幸せになりたいけど幸せになれないなどという人も同じような場合が多い。本当は幸せになりたくないのである。幸せになるより、犠牲者でありつづけたいというのが、そのような人の本音である。幸せになりたいなら、嫌と言うことである。しかし、「言わない」。幸せになるよりも、ひきつづき相手に気にいられていたいからである。
自分のことより、まず全体のことを考えてしまう人がいる。どうしても自分の利益を主張できず、全体の利益のために自分を犠牲にする人である。
それは、たしかに社会的にみて望ましい人である。しかし、そういう人がいつも活力のある人かというとそうでない。そういう人がいつも心理的に安定しているかというと、必ずしもそうではない、むしろ逆である。
このように、まず全体のことを考えて、自分のことを犠牲にする規範意識過剰の人は、おそらく甘えを抑圧しているのであろう。自分の心の底には、普通の人以上にわがままなものがあり、それを抑圧しているのである。
まず全体のことを優先して、必ず自分のことを犠牲にする人は、わがままを抑圧して、反動形成しているのではなかろうか。だからこそ立派であるのだけれど、人間としての迫力に欠ける。立派であるのだけれど、ユーモアに欠けるということがある。