加藤諦三の言葉 第39回 [2001/07/27]

二つの悲しみ
20代の私をささえた言葉 (P.49-P.50)
(大和書房)

 人間には二つの悲しみがある。ひとつは望みを実現した時であり、もうひとつは望みを実現しなかった時であるという格言がある。幸せを、一定の状態であるとか、あるいは一定のものをもつとかいう所有におくならば、それはおそらく永久に失意と落胆の連続であるにちがいない。
 若い時はとかく非日常が大変なことであると思う。しかし、大変なのは日常生活をきちんとすることなのである。非日常はエネルギー消費の瞬発力が問題である。しかし、日々を生きるエネルギーの継続の大変さ、偉大さが若い時代にはわからない。
 そして若い内はとかく形を求める。ここでは所有と非所有という分け方をしているが、それ以外にも形と心という分け方ができるであろう。若いころ心理的に病んでくると、結婚という形、登山という形をもとめる。愛とか、山に上がりたいという気持よりも、結婚、どこそこの山に登ったという形が先行する。
 あるいは結果と過程という分け方もできるであろう。そして結果、形、所有にこだわるから、「人間には二つの悲しみがある」ということになるのである。



幸福は活動にある
20代の私をささえた言葉 (P.54)
(大和書房)

 「幸福は活動にある」のだ。会社をやめるまでしなくてもいいから、何かの活動、行為をはじめることだ。そうしても会社の日常性は変わらないという人はいうかも知れないが、決してそうではない。人は恋をはじめると、急に何でもない街角までがいきいきしてくるように思われないだろうか。心が悲しい時は、太陽も淋しく見えないだろうか。
 外界は心のもち方で変化してくるものなのである。失恋した者にとって周囲は苦渋に満ちて見えるが、恋したとたん世界の様相は一変する。同じ家事が嬉しくなる。同じ繰り返しの家事が楽しくなり、自分の「生」にとってそのひとつひとつのつまらないことが意味をもってくる。
 ピンをさかさにしても栓があれば水はでてこない。しかしそれは水がないのではない。現代の青年が毎日ブラブラしているといってエネルギーがないのではない。そのきっかけを行為という冒険によってつくらなければならないのだ。



自分のカラを打ち破れ
20代の私をささえた言葉 (P.58)
(大和書房)

 現代の青年に必要なものは、「小さな幸せ」を求める気持ではなく、“大きな悲劇”に耐えようとする覚悟なのだ。青年とは、自分のカラに閉じこもっていくものではなく、自分のカラを、次々と破っていくべきものである。
 青年は自らの苦難にみちた運命を感謝して受け入れる勇気をもたねばならない。真実の愛を、真実の友情を、真実の仕事を求めて、誰の人生でもない自分自身の人生を生き抜くことだ。 
 青年が時代の苦難を背負うことを避け、いたずらにエゴイスティックな小さな幸せを求めて、安逸と怠惰に走る時、歴史の歯車は逆転する。現代の青年の中にしみわたっている「小市民根性」は敗北主義であり、非生産的であり、そして何よりもエゴイズムである。


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