よく「おたがいの間に会話がなくなる」ということが言われる。どうして、個人と個人の間に話が失われるのだろうか。どうして二人の間に笑いがなくなるのであろうか。ところで、人間はどんな時にしゃべり、どんな時に黙っているか。答えは簡単である。もともと、おしゃべりとか無口とかいうことを別にすれば、気持ちが軽い時にしゃべり、気持ちが重い時に黙っている。仕事の時なら気が重くても、人間は取り引き先の人と笑って話をしなければならないかもしれない。どんなにイライラしていても、楽しそうに笑って接待をすることだろう。しかし、相手と別れたとたん、その人は不機嫌に黙りこくってしまう。仕事の時の義務感での話を別にすれば、人間は気が重い時は黙っているし、気が軽い時はしゃべる。その人と会っていて気が軽ければ、人間はいくらでもしゃべるだろう。
愛とは、エゴイズムであると思っていた。愛とはナルシストになることで、もう他人のことなどわからなくなることかと思っていた。いままでは女の愛も本当であると思った。好きになったら、もう何がなんでもその人以外の人と一緒になれない、その人と一緒にいなければ気がおかしくなってしまうような女の愛というものが本当のものだと思ったこともある。それを我慢できるようなきれいごとの愛なんて、本当のものではない、どこかにウソがあり、偽善があると思った。エゴイズムを抜きにした愛などというのはあり得ないと思っていた。しかし、子どもを持ってはっきりわかったのは、人間は本当に他人を愛することが可能なのだということである。自分を捨てる-それがどんなことであるかがわかったのである。そして、人間は本当に人を愛するなら、完全に自分を捨てることができるのだということがわかったのである。
やさしい思いやりのある人間は他人から感謝される。そしてそれは、人間が生きていくうえでやさしい思いやりというものがいかに必要であるかの証拠である。ああ、もうちょっと頭がよければ、ああもうちょっとからだが丈夫ならこんな恥をかかなくていいのに、とふとんの中で泣いたことのない人は、人間にとってやさしさというものがどんなに大切かがわからないのかもしれない。そして人間にとって何よりもつらいのは、そうして泣いても、翌日からまた同じ恥をかきつづけて生きていかなければならないことだ。絶えずバカにされやしないかとビクビクしている人間、それにもかかわらず、それ以外に生きていく方法の見つからない人間、そんな人間にとって「価値」とはやさしさではないだろうか。