すぐ自己反省する人は、いつも犠牲者の役割を演じる。すぐ自己反省する人も、攻撃性を自分に向けている人であろう。すぐ自己反省するが、実際の行動を伴わないことが多い。世の中には、すぐ自己反省する人と逆な人がいる。他者否定タイプである。すぐ自己反省するタイプは、この他者否定タイプの餌食なのである。すぐ自己反省する人は、他者否定タイプの心の葛藤の解決手段にさせられてしまう。非難してくるタイプは、必ず相手に反省を要求してくる。しかし、反省したからといってすぐに許すわけではない。相手を非難し、責め続けていない限り、また自分の心の葛藤に直面してしまう。相手をしつこくいつまでもいつまでも責め苛むのは、相手を責め続けない限り自分の欠点から眼をそむけ続けられないからである。満たされない顔で、いつまでもしつこく相手の些細な欠点を責め続ける人がいる。どうでもいいような事なのであるが、誠意がないという言い方をする。実は誠意がないのは、まさに誠意がないと相手を責め苛んでいるその人である。
せつなさを産み出す原因は、何度も言うように憎しみの抑圧である。であれば、人はどうして憎しみを抑圧するのか。一つには自分本意への恐れである。利己主義と言われることへの恐れである。シーベリーという心理学者は、しきりに「無私にもとずいた義務の重荷」を言う。自分らしくあることが利己的に思えて、それを押さえる。シーベリー流に言えば、「義務の美名の元にふりかかってきた」ものをみな引き受けて、いつも「はい、いいわよ」と笑顔でいる人は、せつなさに苦しむなのかも知れない。
なぜあれほどまでに激しく人を憎むかといえば、今まで恋によって、内面に不安がなかったのである。しかし、恋人にふられることによって、今までの精神的安定がいっぺんにくずれて、激しい不安に落し入れられたのである。今までの精神的安定は恋していたからであり、恋人に恋されていたからである。恋し、恋されるほど、人間の精神的安定をもたらすものはない。ところがその安定が、失恋によって失なわれる。ふられかかった時恋人は、なんとかしてふられまいと涙ぐましいほど必死になる。つまり、あの必死の姿こそ、現代人が他人の是認に執着している姿なのである。そしてふられたことが確定的になった時点で、今度は激しく憎みだす。ふられかかった時、気に入られようとしていた涙ぐましいほどの努力とうって代って、今度は激しい憎しみにとらわれる。つまり、ふられたことが確定的になった段階で、他人の是認による不安解消は絶望的になるからである。ふられかかっている恋人の精神的不安こそ、現代人の不安であるのだ。