嫉妬深い人は物事に関心があるのではなく、優越しているかしていないかにのみ関心がある。まさに ahead or not にのみ関心がある。優越することが唯一の喜びになる。
This attitude leads necessarily to a loss or impairment of real interest in any cause.
これは悪循環である。物事に関心がないということの方が先かも知れない。
神経症的競争の第一の特徴こそまさに嫉妬の特徴ではなかろうか。人より優位に立ちたい、人が自分より優位にいることが気に入らない。これがカレン・ホルナイの言う、[神経症的競争をする人は自分と他人を対立して考える]ということであろう。
The neurotic measures himself against persons.
こんなときにまわりにいる人で、その嫉妬深い人の味方をする人が現われると二人はものすごく尊敬し合う。もちろん二人は心のふれ合いはないし、本当におたがいを尊敬しているわけではない。しかし二人でいるときにはその優位に立っている人への不快感から少しは解放される。一口で言えぱ、その人といるときの方が心理的に楽である。圧迫感から解放される。
優れた人への不快感と密かな敵意が二人を結びつける。このように嫉妬から人生を間違える人は多い。共に生きる人を、嫉妬から間違って選択する人は多い。嫉妬から自分の生き方を変えてしまう。
妬んでいる人は、狭い世界に住んでいる。自分が妬みやすい性格だと思う人は、今いる世界と違った世界を持つことである。趣味の世界を持つことの大切さはここにある。しかし趣味の世界を持つということはちょっと想像するよりも難しい。よく執着性格の人に、趣味を持ちなさいということを忠告する人がいる。もちろんその通りなのであるが、もともと趣味を持てない人が執着性格になるのである。生きることを楽しめれぱ、仕事中毒のようなことにはならない。神経症的な競争をすることもない、人を妬むこともない。
生きることが楽しくないから、人を羨み、妬み、足を引っ張るのである。生きることを楽しいと感じれば、妬んで他人の足を引っ張ることなどぱからしくなる。他人の足を引っ張って楽しいわけではない。妬ましい気持ちが治まるだけである。
生きることが楽しけれぱ、他人の足を引っ張る間に楽しいことをしている。生きることが楽しければ、妬みや、神経症的競争がぱからしくなる。生きることを楽しく感じるかどうかは、その人の気持ちの持ち方である。
同じように泳いでいても不服な人もいれぱ、楽しいと感じる人もいる。同じように芝生の上を歩いていても楽しいと感じる人もいれば、不満な人もいる。同じように英語の勉強を同じ教室で、同じ先生にならっていても、楽しいと感じる人もいれば、不愉快な人もいる。
不満な人、不愉快な人、不服な人は、どうしても妬む方に回る。そして自分が実力をつけるよりも、他人を妬みその人の悪口を言い、足を引っ張るようになる。
諦めるということは人生を積極的に生きるということである。諦めるということは人生を明らかにするということである。諦めるということは、自分に与えられたものに気がつくということである。諦めるということ戸は自分の能力を活かすということである。
人は諦めることによって、初めて自分本来の能力に気がつくのである。いつまでも自分の挫折を受け入れられずに、人を妬んでぱかりいる人は、自分に与えられた能力を活かすことなく人生を終わる。
妬んでばかりいて、自分の出来ることをしない人は、宝の持ち腐れである。彼らは楽しく生きようとすれぱ生きられたのに、いつまでも本来自分のすることではないことに固執して、自分の出来ることをしないまま、不愉快な辛い人生を送る。自分の出来ることを始めれぱ気も晴れたろうに、妬んでばかりいるからいつも恨みがましい顔をしていることになる。
心理的に成長しない人は、自分が実現しなかった夢を実現している人を見ては妬む。自分は大学の文学部にいた。そのとき一緒に同人誌を作っていた伸間が小説家として成功している。自分も小説家になることが夢だった。しかし今自分はほかの職業についている。そして今もなお小説家に憧れている。
そんな人は昔の仲間を妬むばかりではない。現在の職業でも同じように仲間を妬む。そこが恐ろしいところである。