加藤諦三の言葉 第328回 [2008/04/07]

責められていないのに、責められていると感じてしまう。
「心の休ませ方」「PHP研究所」

 例えば大人になっても人の好意に「ノー、サンキュウー」と言えない。
 友人から夕食に招待されて料理を沢山つくってくれた。美味しく食べた。しかしもうこれ以上食べられない。でも「もういっぱい」と答えられない。
 なぜ「もういっぱい」と答えられないのか。それは幼児期にその様な対応をすると地獄の体験をしているからである。
 つまりもうこれ以上食べられないので、「もう食べられない」と言ったときに、母親がもの凄く不機嫌になった記憶があるからである。
 母親が「ケーキ食べる?」と聞く。子供は本当は食べたくない。でも「食べたくない」と答えたときに、母親がどのくらい不機嫌になるか体験している。
 そしてその親の不機嫌の後、さらに延々と責めさいなまれると言う地獄の体験をしている。 そこで小さい頃から、「ケーキ食べる?」と聞かれたときには、考える余地なく、喜ばなければならない。
 こういう様に責められて育っている人は、心の底に憎しみの感情が堆積しているのは当たり前である。
 だからこういう人は人が好きではない。会話も下手である。相手が不機嫌になることが怖いから何も気楽に言えない。
 「ケーキ食べる?」と聞かれて「ワー、嬉しい」と答えなければ親から激怒される。「ワー、嬉しい」と言う心の反応が親は嬉しい。親が子供に甘えているのである。そして甘えられないときに親は怒る。親は自分の甘えの気持が傷ついて怒る。
 そうした体験を積み重ねていれば、心は何を言うのも、相手の気持ちを傷つけないように、気を使う様になる。 これでは会話は成り立たない。そういう人は大人になってもいつも何となく人が怖い。
 コミュニケーションができるとは、本当は食べたくない時に、「食べたくない」と言えることである。
 世の中にはオギャーと生まれたときから責められて育っている様な人もいる。そうなればいつか、人が責めていなくても責められていると感じてしまう様になってもおかしくない。被害妄想と言う言葉にならって言えば、それは被責妄想である。
 「オギャー」と言う声が、「怖い、怖い」と言う声のように生まれてくる人もいる。
 そして三十年、四十年、五十年とたてば生きることに疲れるのは当たり前である。
 家の中にガソリンがある。家の前で誰かがたき火をすれば誰でもビクッとする。
 被責妄想のある人は、心の中にガソリンがあるようなものである。誰かが何かを言えばビクッとする。  小さい頃周囲の人に甘えられたものは心の底に憎しみを持っている。
 自分が幼児的願望を持っているのに、他人の幼児的願望を満たす役割を背負わされてしまった人は悲惨である。これは心理的にはまさに地獄である。


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