加藤諦三の言葉 第27回 [2001/04/24]

相手にラベルを貼ることにより、本当の姿が見えなくなる
人を動かすための手っ取り早くて確実な方法 (P.21)
(PHP研究所)

 三十三歳と三十二歳の夫婦。大恋愛で結婚。しかし夫の仕事はうまくいかない。それが妻のせいだと主張するほど夫は幼稚である。妻が家でうまくやらないから、夫が外で成功しないと言うのである。
 そこで「離婚してくれ」と夫は言う。「どうして?」と妻が間くと「何もかもいや、いやなものはいや、性格の不一致」とそればかり言う。「好きな人、できたの」と妻が間くと「できた」とはっきり言ったと彼女は嘆く。
 この男性も全ての不幸の原因を〔性格の不一致〕と思っている。それだけに彼の人生には幸福が訪れない。この離婚を選んだ男性の例のように、そのラベルが説明の仮面となるために、真の原因を突き止められない。ラベルによる説明が、特定の出来事や行動を検討する妨げになるのだ。彼のとった行動からは諦めの戦略がうかがえる。このようなラベルを貼ってしまうことは根深い、変えようのない性格を暗に意味するからだ。ラベルをはがす行動に移る気力を、ラベルを貼ってしまったためにくじいてしまうのである。
 人は自分にラベルを貼ることもあるが、同時に相手にもラベルを貼る。人間関係に不満があるとき、相手のほうにラベルを貼る。〔面白みがない〕〔冷たい〕〔自分勝手〕などのラペルを貼りつけてその理由を〔説明〕しようとすることがある。こうすれば、人間関係に欠けているものについて自分は貴任を員わなくてすむかもしれない。だがその結果、その人は状況をコントロールするチャンスもなくす。さらに、その相手よりは自分自身が相手に貼ったラベルに対して反応するようになるかもしれない。



自分自身を見つけた人は不安を持たない
人を動かすための手っ取り早くて確実な方法 (P.57)
(PHP研究所)

 不安感をもたないのはどんな人だろう?金持ちか、頭の切れる人か、運動選手か、俳優やコメディアンか、それとも自分が一番羨ましく思っているあの人か?満足そのものの自己イメージをもつ人は、いるにしてもごく少ない。人はときおり見事な働きを見せ、他人の目には自信に満ちあふれているように見える。しかし、まさにそんな人たちがしばしば内心では「本当の自分を人が知ったらどう思うだろう」と考えているのである。
 われわれに見えるのは他人のこの表向きの顔で、その下にひそむ無力感はふつうとらえられない。だからわれわれは他人の自己イメージについては肯定的情報をつかみ、自分については否定的な情報にとらわれるのだ。それを比べて悩むのは当然の成り行きである。
 最近経験した短いやりとりから挿話的証拠が手に入った。会話の相手はアメリカ東部にある有名大学の教授スタッフ二人である。一人は少数民族の一員で、したがって同じ少数民族の学生に強い一体感を抱いている。少数民族出身の者がその大学で学ぷのは、じつに苦しい体験だと彼は言った。その理由は、自分は〔本当は〕それほど頭がよくないと思い込んでいるからである。自分は頭のいいふりをしているだけと考えるのである。本当は頭がよくないということをごまかして大学に入ったので、その仮面を一瞬でもぬいだら成功が消えてしまうのではないかと不安でしかたがないのだと言った。
 もう一人の女性の研究者はその話にややぴっくりした。一番不安がないのがこれらの障害をのりこえてきた者たちだとぷだん思っていたからだ。社会の偏見と戦い、人よりきびしい競争を勝ちぬいてきた彼らだから自信があるに違いない、自分に能力があるのをいまでは自覚しているはずだとその研究者は思っていた。この話を間くまでは、多数派でしかも一度も苦労して働く必要ほなかった、豊かを家庭の学生たちに彼女は同情を覚えていた。苦労して働いた学生は、自分の力で成功できると、〔パパとママ〕がついていなくてもやっていけると自信ができる。しかし豊かな家庭の学生たちは決してその確信をもつことができない。だから彼らに彼女は同情を覚えていた。
 では不安がないのはどんな人間か? 自分にある能力を認識し、自分の人生に対するコントロールの力を信している人間である。自分をただ運命の犠牲者とか環境に恵まれたから成功できただけとは考えない人たちである。そして何よりも自分自身を発見した人である。



自分に自信のある男は価値の序列をしない
人を動かすための手っ取り早くて確実な方法 (P.85)
(PHP研究所)

 ところでどのような人が自分の美点に気がつきにくいのであろうか? それは視野の狭い人である。あるいは一つの価値観に縛られている人と言ったらよいかもしれない。自由に自然に物事を考えられない人である。
 例えば大企業のサラリーマンの方が、中小企業のサラリーマンより偉いというような価値の序列をする人がいる。そういう人は自分の持ち味とか美点に気がつかない。あるいは自分の持ち味に自信を持てない。学生時代に数学のできる生徒の方が、絵や工作のうまい自分よりも優れた人のように感じていた人は、サラリーマンになっても自分の持ち味とか美点に気がつかなかったり、自分の持ち味とか美点に自信を持てない。
 学校の教科の試験と創造性とはあまり関係ないと心の底から思えない人がいる。そういう人は自分の持ち味とか美点に気がつかないことが多い。劣等感から自分を守ろうとするからである。
 逆に言えば自分の持ち味とか美点に気がつき、自分に自信のある人は価値の序列をしない。したがって他人の持ち味とか美点も認めることができる。学校の教科の試験と創造性とはあまり関係ないと心の底から思いながら、それはそれとして認める。したがって〔学校の教科の試験などくだらない〕とか、〔社会で出世するのなんかくだらない〕とか虚勢を張る必要はない。学校の教科の試験の成績は成績としての意味を認める。会社で出世することの価値をそれとして受け入れる。自分がそうでなくても、それはそれで〔素晴らしいね〕と素直に認めることができる。自分の持ち味に気がつき、自信のある人は他人の持ち味を素直に認めることができる。他人の美点が自分の価値を脅かさない。


BACK← →NEXT
「加藤諦三の言葉」目次へ戻る
トップページへ戻る

このページに掲載されている記事などの無断転用を禁じます。

Copyright (C) 2000-2006
加藤諦三、加藤諦三研究室