人のためということが誤解されることがある。なんでも「あなたのために」という恩着せがましい友人がいる。「あなたのために頑張ってきたの」「あなたが生きがいなの」と子供に言う母がいる。自分の生きがいを人を巻き込むことでしか得られない人たちである。
人は自分のために生きられるようになって、はじめて自立できたと言えるのではないだろうが。自分のために生きるということが、わがままとか、自己中心性とか言われていることと同じ意味にしか考えられない人は、まだ心理的に依存的な人である。
あることをする時、他人から高い評価を得るためにそれをするということがある。それは自分のためにそれをするというのではない。自分はある所に行きたくない。しかし、誘われれば行くということがある。それはその人たちに好かれたいからである。「あいつは、いいやつだ」と思ってもらいたいからである。嫌われるのがいやというので行くだけである。忙しいのに誘われれば断らないでついて行く。行きたくないのについて行く。断って嫌われるのが怖いのである。
そんな時その人は、自分のためにぞこに行ったということにはならない。好がれたいからでもなく、嫌われるのが怖いからでもなく、そこに行くことで自分を向上させようとか、自分のながであることに区切りをつけようとが、自分が楽しいからとかいうことで行く時、自分のために行くということである。
どんな人と付き合いたいかと聞かれれば、優しい人と私は答える。では優しいとはどういうことだろう。
優しさとは、相手をそのまま受け入れるということではなかろうか。その人と居ると自分を大きく見せるために緊張することもない、自分が強く優れていなくても、その人から見捨てられる恐れも感じない。そんな人が優しい人ではなかろうか。
その人と居ると、とりいる気持ちにならない。自分の意見がその人と違っても、見下げられる恐れを感じない。その人は自分に強く優れていることを求めていない、ただ自分を求めている、そのように感じられることが、優しさが感じられるということであろう。
その人と居ると、自分が強く優れていなくても、好かれる、尊敬されるという感じがする。その人と居ると特別に何かをしなくても自尊の感情が満たされる。その人と居ると、その人に特別に何か尽くさなくても受け入れてもらえる気がする。その人と居ると特別に何かお世辞を言わなくても、嫌われない気がする。その人と居ると特別に何かをしなくても、世話をしてもらえる気がする。そんな人が優しい人なのであろう。
優しくない入と居るとなにか気嫌ねしてしまう。その人の是認を得るために、その人の期待に敏感でなければならない。
心惹かれる人というのは、他人の幸せの知らせを、ほっとして聞く。嫌われる人というのは他人の幸せの知らせを聞くと面自くない。心惹かれる人というのは他人の幸せの知らせを聞いて、あーよかった、あの人達は幸せなんだと胸をなで下ろす。嫌われる人というのは他人の幸せの知らせを聞いて、何か期待はずれのような気持ちになる。
その違いはどこから出て来るのか。それはその人の心の底に愛情があるか敵意があるかの違いなのである。
他人から是認してもらいたいという願望が強いとこのようなことが起きてくる。
ではどうしたらよいのか。答えは、他人を一人一人よく見ること、である。他人に是認してもらいたいという強い願望を持っている人は他人をその独自性において見ない。卑怯な人でも、誠意のある人でも、我執の強い人でも、寛容な人でも、ずるい人でも、優しい人でも皆同じに見えてしまう。全ての人が自分の是認の欲求の供給源として、同しように重要なのである。
すぺての人を自分の是認の欲求を満たす点がらしが見ない。その点で自分に役立つか、役立たないかということだけで見る。その人が心の冷たい人か、暖かい人かなどには全く無関心である。どんなに視野の広い人でも是認の欲求に役立たない人というのは無視する。その人の視野が狭いか、広いかなどには無関心なのである。
魅力のある人というのは嫌われることを恐れてはいない。
ではなぜ私達は心の葛藤を持ってしまうのであろうが。それは嫌われる恐怖、見捨てられる不安を持つからである。我々は人に好かれようとしながらも、逆に魅力のない人間になってしまったり、時には軽んしられる人間になってしまう。