自分と相手が違う事情を持っている、自分と相手は違う感じ方をしている、自分と相手は違う欲望を持っている、自分と相手は違う人間だということが感じ方として分からない。
しかしこれは大人になっても誰でも分かるというものではない。自分が都合いいとき相手が都合悪いと怒り出す人もいる。自立とは結局自分と相手は違うということに耐えられるということではながろうか。
一人でも楽しめるということが自立の条件である。自分が都合いいとき相手が都合悪い。その時、一人で何かをしていても楽しいということが自立した人という意味である。相手にふられるととたんに何もする気になれないほど気分的に落ち込んでしまうという人は、心理的に自立していないということであろう。
相手と一緒に何がすることも楽しいが、一人でもまた別の楽しさがあるという人が心理的に自立した人である。
自由というのは一般に考えられているよりも人間にとって不安なものである。フロムが自由からの逃走と言ったが、自由というのは本当に不安なものである。人はたいてい自由でないからその不安に気がついていない。
朝決められたように会社に行き、決められたように仕事をして、夕方同僚と酒を軽く飲んで家に帰るという生活の中では、その人が心理的に自立しているのか、いないのかは分からない。
自分自身のために生きられる人が他人のために尽くしたときには、相手を束縛しない。相手も気分がいい。しかしもともと自分自身のために生きられない人が、相手に尽くす相手は束縛感を覚える。自分自身のために生きられない人は、恩着せがましくなる。
自分自身のために生きられない人はおそらく愛情飢餓感が根底にあるのではないかと推測される。つまり何よりもまず自分が相手との関係が大切なのである。相手との関係から最大の満足が得られる。何よりもまず自分が相手から求められる存在でありたい。求められることに何より生きがいを感じる。彼らは誰も知らないところで自分一人で自分の好きな事をして満足するということは出来ない。それは彼にとっては時間の無駄である。
逆にメランコリー親和型の人でなければ、それは最高の時間である。愛情飢餓感を持っていないからそれが最高の時間になるのではながろうが。愛情飢餓感が強ければ相手からより求められ、より感謝され、より賞賛されることをしていないと安心できない。一人で静がに自分の楽しみである趣味をしているなどということは不安を増大させるだけである。その間にお金や名誉のためになることをしていた方が安心である。
メランコリー親和型の人の行動は基本的にやはり愛着行動なのではながろうが。まさか大人になって小さい子供のように母親の後を追うことは出来ない、いわんや母親の膝の上に座ることは出来ない。しかしそのような欲求はその人の中にある。その代理行動を大人はとるしがない。つまり相手のことをすることによって相手から愛情を得ようとするのである。それが得られないといって小さな子供のように泣き叫ぶわけにはいかない。しがし本質的には同じ事である。
さきにあげた恋人もいつも相手と一緒にいたがる。恋人とぺつぺつに離れて行動することを望まない。そんな時自分は相手に対して誠実な恋人であると思い込む。なかには自分くらい誠実な恋人はいないとさえ思い込む。
そしてたしかにいつも一緒にいようとし、一人で何がすることを好まない。また恋人以外の人と付き合うことをそれほど好まない。むしろわずらわしいとさえ感しる。世の中の自分勝手に遊びまわって、自分の恋人をかまわない人にくらべれば、たしかにこんな誠実な恋人はいないように見える。
しかしこんな恋人同士がいつもうまくいくとは限らない。その「誠実な」恋人を持ったほうが逃げだしていくということはある。ベつに逃げだしていくほうに親しい恋人が出来たわけでもない。
それはやりきれない束縛感なのである。分離不安を持つ恋人は、相手を支配しようとする。相手の心のすみずみまで支配し、束縛しようとする。ちょうど小さな子供が母親を自分一人のものとして、自分の思うようにしようとするのと同じである。
小さな子供は母親と密着しようとし、母親を自分の思うように支配できないと怒ったりすねたりする。これは幼児的一体化願望を持った恋人についても同しである。相手を束縛し、自分の思うように動かそうとする。そして相手が自分の望み通りに動かないと怒ったりすねたりする。相手が自分の言ってほしいことを言わないとすぐに不満になる。