自分で自分を決めつける人はまた他人のことも決めつける傾向がある。神経症的な人は相手を決めつける。あなたは幸せだ、あなたは友達に恵まれている、あなたは強いから傷つかない、あなたはこれが好きだ、あなたはあれが嫌いだ、あなたは親切な人だ、あなたは苦労していない等等決めつける。
今度は逆に相手がつくるイメージに自分を合わせる人がいる。相手がつくるイメージに縛られる。相手が理想のイメージを押しつけて来る。するとそのイメージに合わせて行動しようとする。そのイメージに自分を合わせて演技しようとする。ランガー教授の言うmindlessnessに相手の言うことを受け入れる人である。
シーベリーが言うところの「悩む人」というのがこのタイプである。「私はそういう人間ではありません」と言えないから悩むのだとシーベリーは言う。そしてこれを言えないのが執着性格であり、メランコリー気質であり、循環気質なのではなかろうか。なぜならこの種の人は他人の期待に応えることが人生の目標になってしまっているからである。
あなたは優しい人だ、あなたは力がある、などと決めつけられるとそれを演じようとする。「そんなことはありません」とはなかなか言えない。「あなたは強い人だ」と言われると、「そんなことはない、私だってあなたと同じに傷つきます」と言えずに、傷つかない強い人間を演じようとする。
いつも文句ばかり言っている人がいる。自分の仕事に対する文句、恋人に対する文句、自分の住んでいる町に対する文句、自分の会社に対する不満、自分の上司に対する不満、いま付き合っている友人に対する不満、家の近くの銀行に対する不満、とにかく不満、不満なのである。
そんなに不満ならその恋人と別れればいいではないかと思うが別れようとはしない。そんなにその友人が嫌ならその人と付き合わなければいいではないかと思うが付き合いを止めない。そんなに不満なら現在のアバートを変えればいいではないかと思うが引っ越しはしない。
私はだいたい人の不満とその人の受け身の態度とは正比例するものと思っていた。私は若い頃からいろいろな企画をすることが多かった。いろいろな企画をするとその参加者はだいたいにおいて受け身の順に不満が高い。それは何か不満なことがあっても、不満なことを決して変えようとしないからである。不満を表明しながらもそのことにしがみつく。
自分の肉体的、知的な弱点を相手に対して恥ずかしいと感じない関係が、安らかな関係なのである。そういう関係においてこそ、人は心理的に成長できる。
弱点を恥ずかしいと感じないということと、弱点があることを否定することとは違う。自分の弱点を自分で認めることが必要なのである。自分の自分に隠してはいけない。
しかし、その弱点が相手との関係でさらけ出されても、相手に対して気が引けないような関係が心理的成長には大切なのである。また、自分の弱点があらわれてしまうのではないかと不安になることのない関係のなかで、人は自分の潜在的能力を十分に発揮することができる。
自分の欠点や弱点を過剰に意識ししてしまう人は、自分の弱点に無頓着な人とつき合うのがよい。自分の弱点を恥じている人にとって、心安らかなつきあいができるのは、自分の弱点に無頓着な人だからである。
自信のない人は、小さい頃から、いろいろなかたちで心理的に操作されてきているのである。あなたをおだてることで操作することもあれば、あなたに罪の意識を持たせることで操作することもある。
あなたの弱さを見抜いた人が、あなたをどのように操作してきたのかーーそれがこの本を読んで理解できれば、自分の自信のなさは人々に世ってつくられてきたものにしかすぎないとも理解できてくるはずである。そして、小さい頃からの自分の心理的挫折を理解できた時、朗らかな気持ちで生きることができるようになる。
不機嫌な人、いわれなき罪悪感に苦しんでいる人、自分におびえている人、何か自分の存在は許されないと感じている人、それらの人は、自分が何を望んでいるか分からなくなっている。自分が心の底の底で望んでいるものは何なのか、自分が必要としているものは何なのか、それが本人に分からないということが問題なのである。
それらの人が心の底で望んでいるもの、それは「やさしさ」なのである。ところが、それらの人は、自分を守ることばかりに気を奪われていて、自分の望むものに気付こうとはしない。
甘えを満たされていないあなたは、実際には自己中心的でわがままなのである。あなたはそれを認める必要がある。自己中心的でわがままな自分をどんなに抑え、それからどんなに眼をそむけても、不快感から逃れることはできない。それらを抑えてみても、それらはどこかでかたちを変えて出てくる。たとえば、他人の不幸を心のどこかで喜ぶ、自分の憎しみに正義の仮面をつけさせて他人を苦しめる、そんな歪んだあらわれ方をする。
自分の望んでいるものに、勇気を持って気づくことである。もっと正確に言えば、自分が直接に望んでいることに気づくことである。神経症的な人は、自分が直接に望んでいることに気づかない。自分が必要としているものが分からなくなっているのである。
甘えの欲求を強く残した依存的男性が恋愛をしたとする。いや恋愛というほどかかわらないとしてもいい。ただお互いに好意を持ったという程度でいい。この依存的な男性は親しくなるにつれて、自分のわがままを出すようになってくる。
そんな時必ずしも相手の女性は、そのわがままを受け入れないとする。そんな時その依存性の強い男性は、「おまえは冷たい」ということがある。この男性は、その女性が自分の言いなりにならないから、「おまえは素直ではない」と言っているのである。
この女性はもしかしたら「しっかりしている」表現すべき人かもしれない。この男性とは全く別の立場の人がこの女性を評価したら、「おまえは素直じゃない」ではなく「きみはしっかりしている」となるかもしれない。ところがこの男性からすれば、その「しっかりしている」点が、その女性の冷たさと感じるのである。最も典型的な例は、男性が女性に肉体を求める場合である。女性は相手の愛を信じられなくて、それを拒否したとする。すると、この依存性の強い男性は、この女性を「冷たい」と言い出す。
なぜ「冷たい」と言うのか。それは相手の女性が、自分の甘えの欲求を満足させるように行動しないからである。しかし、男性から「冷たい」と言われれば、女性はやはりそれなりに傷つく。しかも、次々に男性があらわれて、同じようなことで「お前は冷たい」と言えば、その女性はその女性も「私って冷たいのかしら」と思い出すかも知れない。その女性は「自分は自分を大切にしているだけだ」と思いつづけるのは、かなりむずかしい。「私は男性の欲望の奴隷ではない」と主張しつづけるのもむずかしくなる。