孤独感は人間の意欲を奪う。孤独に苦しんでいる人は何かをする気力を失う。ことに心の底に怒りを抑えこんでいる場合には、手を動かすことさえ、大変な苦痛となる。ただじっと石のように動かないでいるだけで精いっぱいにんる。まったく動かないで、心の底に閉じこめている怒りのものすごさを表現しているのである。
孤独に苦しんでいる人は心の底に憎しみを閉じこめている。「なぜ自分をもっと愛してくれないのだ」と叫んでいる。しかしその相手を憎んでいるから叫び声をあげられない。彼が人々から好かれるためには、この閉じこめている声を外に出すことである。
怒っている人は傷ついているのだとは名言である。怒りっぽい人、すぐカーッとなる人は、皆傷つきやすい人なのである。怒るのもいいが、「私は傷ついている」と相手に訴えることが相手との心のふれあいの第一歩なのである。
神経症的な人は人に好かれようと努力する。それなのに人の喜ばせ方を知らない。なぜ喜ばせ方を知らないかといえば、思いやりがないからである。心がないといってもいいかもしれない。
心は眼に見えない。恋人が好きだといいながらも、恋人に食べさせる料理をつくるのに新鮮なものを遠くまで買いにいくことをしない。近くのスーパーやデパートの缶詰ですましてしまう。調理してしまえば材料は眼に見えない。
しかしその材料が心を表しているのである。材料の選び方に心が表れる。時間をかけてわかる思いやりというものが神経症的な人にはない。神経症的な人はその場で相手に自分を売り込むことしか考えていない。
他人からいやな人だと思われることを恐れながら、他人からいやな人と思われることをしてしまうことがある。たとえば言い訳である。しつこく言い訳するのは自分を認めてもらえないことを恐れているからである。しつこく言い訳すれば相手が迷惑するということが考えられない。
神経症的な人はよく立派なふりをする。しかしその立派なふりが相手を苛立たせるということに気がついていない。神経症的な人が演じる理想の人は、どうして周囲の人から好感を得られないのだろうか。それは自分を売りこむための理想の人だからである。頭のいい女を売りこもうとしている女は愚かな女である。
今、あなたが第一に知らなければならないことは、「嫌い!」といっても「嫌われない」ということである。いいたいことをいってごらんなさい、前よりも人はあなたに好意を持つようになるに違いない。