加藤諦三の言葉 第17回 [2001/01/18]

現代人のセックスは少しさびしんぼう
自分に気づく心理学 (P.49)
(PHP研究所)

 たとえば性が社会的に解放されるに従い、それは内的には負担となっていった。外側の規制がとれればとれるほど内的にはストレスがつよまっていった。
 男性も女性も、自分がいかに素晴らしいかを相手に証明しなければならなくなったからである。そしてそれは同時にお互いにテストされるという心理的負担になった。人々はこのテストに合格しなければならなくなった。かくて男性の不能や女性の不感症が大きな間題となってくる。
 お互いに親しさの結果として性的関係にはいるのではなく、自分の男性性、女性性を示すために関係を連成しようとする。もともと心にみぞのある神経症者などは、性的達成を通して親しい関係を確立しようとする。つまり結果ではなく手段なのである。
 相手と親しくなれない神経症者にとって当然これは心理的負担となる。もともと他者との心の交流がうまくいかない神経症者にとって、性は心の障壁をのりこえる手段なのである。それだけにこれに失敗することはできない。
 神経症的傾向の人間同志は、お互いに心の底で拒否しあっている。異性間であれ同性間であれそれは同じである。しかしお互いに心の底で拒否しあっていることを認めたくない。親しいのだと確信したがっている。お互いにひかれつつ拒否しあっているという両極的なことが多い。
 このお互いの心の底の拒絶をのり越える手段が性の達成である。お互いに心の葛藤に苦しみつつ無意識のレベルで拒否しあっている以上、男女ともにこの企てに失敗することが多い。
 それは人間は無意識に支配されるからである。無意識のレペルでの拒否がお互いの広い意味での欲望の達成の障害となる。お互いに心のみぞから眼をそらそうとして性を達成しようとしているのである。性の達成に成功すれぱ心のみぞから眼をそらすことに成功することになる。しかし事実としてお互いの心の間には深いみぞがある。



“イヤだけど好き”の心の深層とは?
自分に気づく心理学 (P.69)
(PHP研究所)

 隠された甘えの欲求があると、相手に対して両価的(両立しない矛盾した感情をいだく)になる。離れられないけど、一緒にいると不愉快だとか、気は楽だけど重苦しい気分になるとが、いやだけど好きだとかいった矛盾に苦しむことになる。
 隠された依存の欲求がなくなれば、離れられない人といると愉快だし、気が楽な人といれば」気は軽いし、嫌いな人は嫌いだし、好きな人は好きである。たとえ依存の欲求があっても、それを自覚できればより両価的でなくなる。両価的感情の対象にされた人はたまらない。そんなにいやなら“ほっといてくれ”と言いたいのだが、しつこくからんでくる。
 その人達は愛に飢えているのである。しかしその飢えを自覚できないでいる。自覚なしにそれを満たぞうとするから、道徳だとか、愛情だとか、冷たいとか、人間としてそんなことはできないとか、いわばいいがかりをつけてくるのである。
 「かわき」を自覚できることが、ある種の心の病の回復には決定的に重大である。自分は本当はかわいているのだ。飢えているのだ。求めているのだ。どうしようもなく自分は飢えている、このことに気がつくことが、大切なのである。
 肉体の場合には誰でもが自分の実際の姿に気づいている。食ぺものに飢えている者は、自分が飢えているということを知っている。しかし、愛に飢えている者は、必ずしも自分は愛に飢えているとは気づいていない。
 逆に自分は愛に満ちたりていると感じている。そこが愛と性の違いでもあろう。



幼児性と思いやりの境界線
自分に気づく心理学 (P.89)
(PHP研究所)

 情緒的に未成熟な大人は、近くの人を気にいったり、嫌ったり、好きになったり、面自くないと反発したり、好意を持ったり、敵意を持ったりする。「ほっておく」ということがどうしてもできない。
 さきに「そこにいるがゆえに」不満なのではなく、その人の心の中に間題があるがゆえに不満になっている人はほっておくほうがよいと書いたが、困ったことに気持のうえでぼっておけないというのが幼児性を残した大人である。
 従って、自分の気持がそのようにして近くの他人にからんでいってしまう人は、まず自らの幼児性を反省することである。それを反省しないで、親切だとが、そういうことは冷たいとか、友情だとか、愛情だとか、いろいろの言葉を使って、自分の気持が相手にからんでいくことを正当化すると、いつになっても心理的に成長することはできない。
 自分の気持が相手にからんでいってしまうことを「思いやり」というような言葉で正当化していると、いつになっても思いやりのある人間にはなれない。
 思いやりをもつためにはまず相手を理解しなければならないであろう。しかし自分の気持が相手にからんでいく時は、決して相手を理解しようというのではなく、自分の思うように相手の気持を支配しようということにしかすぎない。


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